一月万冊の佐藤章さんの回を見たんですが、報道の自由度ランキングの話題でした。

 

佐藤さんはジャーナリストで、元・朝日新聞記者なので、朝日新聞時代の経験を語っていました。

 

経済部にいた時に、銀行の不良債権問題を調べていたそうですが、調べて資料がたくさん集まってきたのに、記事を一切書かせてもらえなかったそうです。

 

当時、どういう関連でそうなったのかわかりませんが、新聞社や出版社も会社なので、銀行と取引があり、銀行があまり世間に知られたくない案件を、新聞社や出版社が広く知らせてしまった場合、取引や商売にマイナスの効果があるという基礎的環境があるようです。

 

だからといって、記者は書くべきことがあるのに伏せておくことはしない職業だし、報道を仕事とする会社も国民に知るべきことを知らせる役割だという自覚を持っているのが普通です。

 

でも日本では、理念的に考えて普通と思われることが、建前でしかなく、実際は本音ベースで動いていて、そこには階層社会の信仰があるのか(階層構造を守ってこそ世の中が丸く治まる)、理念で飯は食えないという農民根性があるのか、いずれにしても、関係者に都合が悪いことはか書かないのが当たり前という発想が、表面をはいでみると、強固に存在するようです。

 

佐藤さんは、不良債権問題について朝日新聞で書かせてくれなかったので、週刊誌のアエラに移動した時にそこで書いたそうですが、そのことが原因で、7年くらい配置換えに遭い、記者の仕事をさせてもらえなかったそうです。

 

厳密には、記事を書いたことが原因だったのか、その後に外部の出版社から本を出したことが原因だったのかわかりませんが、銀行が知られたくないことは書かないという会社の上層部もしくは上司の意向に逆らったことがまずかったようです。

 

本の出版は、文藝春秋がやってくれたようですが、その前に、中央公論社で話が進んでいたのに、途中でぽしゃってしまったそうです。当時から、新聞社や出版社の経営はあまり良くない状態だったらしくて、経営のことを考えると、銀行の感情を逆なですることはやりたくなかったのかもしれません。銀行がお金の貸し出しで意地悪をされると、経営が行き詰まってしまうかもしれないからです。

 

でもそういうことは世界中である話だと思うので、メディアの経営者が戦う気持ちを持っていないこと、自分たちは有力者の取り巻きなのではなくて、国民の側に立つ存在なのだという自覚がほとんどないことが、日本の特別な状況なのかもしれません。

 

佐藤さんは、当時の上司から、不良債権問題について書くことを止められた時に、どうしても書くという佐藤さんを無理に止めようとはしなかったそうですが、代わりに裏から手を回して世間に出ないようにするから、ご自由にどうぞと突き放すような態度をとったという話でした。

 

この人はどういう精神で動いている人なのかなと考えるのですが、社会人として大事なことは、自分がどうしたいとか私的な感情に動かされるのではなく、会社の経営を考えて行動することだと思っているのかもしれません。あるいは、流れができていること、上役が決めたことに、わざわざ逆らって、風紀を乱すようなことは大人としてみっともない、という考えなのかもしれません。

 

教科書的な、民主主義社会におけるジャーナリストの役割という発想が、現実離れした理想主義に感じられ、上役や会社としての決定や、組織のこれまでの流れなど、今の流れを形成しているものに沿うことが正しく、それに逆らって波風立てることは、わがままだし、世の中を乱すことだという感覚があるんでしょうか。

 

こういうのはやっぱり、昔の村落共同体を継承している共同体から、個人として抜け出ることがなかった人のありようなんでしょうか。

 

理念的に考える人と、正しさと間違いの観念がちょうど反対になっています。