カンボジア系中国人になる | 舌がんと向き合う日々

舌がんと向き合う日々

2016年4月に舌がんに気づき、6月に手術をしましたが11月に早くも再発。
放射線治療と抗がん剤で一時落ち着きましたが、2019年2月再々発。
そんな舌がんと向き合う日々の記録です。
✳私の発病経過は2016年11/8に、ブログ総集編を2023年9/29に、年表は2022年11/5に掲載中。

昨日、独身寮生活の汚い思い出をブログで書きましたが、それで思い出したことがあります。

私が就職して2年で、あの独身寮を取り壊すことになり、新たにワンルームマンションを会社が借り上げて、そこに引っ越すことになりました。
駅前の新築ワンルームマンションで、とても快適な生活になりました。

もう「マンボ男」も「ゲラー」もいません。
部屋にキノコも生えてきません。
お風呂も狭いけど新品のユニットバス。

もっとも、ゴミ屋敷生活をしていたリビングの主は、このマンションでもほどなくゴミ屋敷生活になっていきましたが。


さて、このマンションの真ん前に「赤い靴」というスナックがありました。

我々独身軍団は、毎日遅くまで仕事をし、夕食をともに外で食い、居酒屋で飲み、深夜に寮にたどり着くと、目の前のスナックにまたフラフラ立ち寄るという、不健康な日々を過ごしておりました。

私が25歳くらいの頃の話です。

この店に初めて行った時のことです。
私、このころ何となく、やけに日焼けをしてまして、ある同僚が店のママに、
「こいつ、外国から出稼ぎにきてる男だから。よろしく!」
と、私のことをふざけて紹介したのです。

すると私も調子にのって、
「ワタシ、カンボジア系中国人の『デイダ・チャン』デス。ニホンゴ、ヨクワカリマセン。ヨロシクオネガイシマス」
と自己紹介しました。

そしたらママさん本気で信じてるんですよ。

結局、私はずっとデイダ・チャンを演じるはめになりました。

仲間たちは、私が外国人として通用するのを面白がって、その店にしばしば足を運ぶことになるのですが、私にしたら結構大変でした。
素でいられないわけですから。

カタコトの日本語をしゃべり、カンボジアとか中国のこととか話さなければならないのですよ。
幸い、でまかせを話しても、ママさんたちには疑念を持たれることはありませんでしたが。

それにしても、なんでカンボジアとか中国にしたかな。
自分でもよく知らないのに。

都合が悪い話題になると、
「デイダ、マダ、ニホンゴ、ヨクワカリマセン。ニホンゴ、ムツカシイネ」
と逃げたりするのですが、
ママさんたちは、一生懸命に、
「そうね、デイダになんて言ったらわかるかしら・・・」
と、考えてくれたりして、それはそれで心苦しいものでした。

結局、私が退職するまでの1年半にわたり、ママさんたちをだまし通しました!

生来、演劇とダンスは苦手なたちなのに、よくぞあの演技力でだましきったものです。

いっそバレてくれた方が気が楽だったのにとも思います。
この店に行くたび、仲間はゲラゲラ笑って楽しんでるけど、私は楽しめないんですよ。

まったくバカな生活してましたね。

ちなみに、とっさに振られて口に出た「デイダ・チャン」という偽名は、私が大学時代にボランティアをしてた時に、子どもたちに親しんでもらうためのあだ名が、
「DADA(ダダ)」
だったので、
「DADAちゃん」➡「デイダ・チャン」
としたのでした。

突然振られたのに、よくキャラクターを作り上げたもんです。

ダダって、ウルトラマンに出てくる怪獣の名前です。


数年前に、そのマンションの近くを通ったので立ち寄ってみましたが、もう「赤い靴」はなくなっていました。