白いキャンバス・1 未送信4 | Proof of...

Proof of...

祈る神を持たない僕は、ただ言葉の力を信じている。全ての言葉に僕の意味を。

「ここは」





「どこ?」





青年は立ち尽くしていた。

木々が生い茂る隙間を縫って、薄靄が立ち込めていた。ただただ静かに、時折吹く風の音とともに枝と靄が揺れた。

ここは、喩えるなら、意識の境界のような場所だった。白い彼の肌は乳白色の靄に取り込まれていくようであったし、彼はそれも気持ちのいいことのように感じていた。
さっきまではっきりと見えていた彼の黒髪も、徐々に靄の影に消え入っていく。白は刻一刻とその濃さを増し、今、彼は見えなくなった。




《1》



ここは、もうすっかりと馴染んできたベッドの上だった。
しっかりとしたつくりのシンプルな金属製のベッドで、マットレスは少し硬めで寝心地は良かった。ベッドの隣には少し広い天板を持つ白いテーブルがあり、その上は雑多な小物が並べられているが、小奇麗にまとめられていて決して乱雑ではない。クローゼットは大きなものだったが、開きかかった隙間から覗く服の量は、彼くらいの若者にしては少ないようだ。テレビもオーディオも無く、彼の部屋にあるものはつまるところ、その程度だった。

黒い遮光カーテンのおかげで陽の光に眼をしかめることはなかった。時計を見ると5時28分、起床予定の2分前。いつもどおりだ。彼は顔を洗い、丁寧に歯を磨き、髪を整えると、これもまたすっかりと慣れたジャージーに着替えた。

玄関の戸を開けると、晩夏の朝の心地よく冷えた空気が彼を包んだ。彼は軽い深呼吸を数回したのち、近くの自然公園へ向かった。
この間、彼はいろんなものを注意深く観察して歩く。昨日と今日では何が違うのか。彼はそれを知ろうとしていた。全ては日々少しずつ変化していくものなのか、はたまた今日は昨日から変化し全く違うものなになったのか。
彼は、彼自身のことを知らなかった。それはつまり過去と言ってもいいし記憶と呼ぶものかもしれない。そういったものを何も覚えてはいなかった。
初めに気が付いたのは静かな森の中だった。しかし辺りを覆う靄が濃くなるにつれ体が浮かんでいるような気持ちよさに包まれ、やがて再び意識を失った。
次に気が付いたのは病院だった。白い天井、白い壁、白いカーテン、白いシーツ。まだあの森の靄の中にいると錯覚しそうだった。
点滴液が残り少ない。案の定看護士が顔を覗かせた。
「目、覚めました?具合の悪いところありますか?」
「はい…あぁ、えぇと、頭が少し…」
「お薬のせいですね。しばらくしたら治まりますよ。先生を呼んできますね。」
医師の話では体に異常はなく、このまま退院していいらしい。
さて、一体どうしたものか。彼は自分のこと、それも名前すら覚えていない。自分がいったいどこで、どんなふうに、誰と生きてきたのかを覚えていない。家族と暮らしていたのかもしれないし、もしかしたらびっくりするくらい素敵な恋人がいたのかもしれない。知ろうにも、身につけていたのは一着の白い服だけだ。困ったことになったと思った。しかし今の状況を彼は悲観してはいなかった。プラスではないかもしれないが、マイナスというわけでもない。真っ白な状況だ。それが自分の現状だと思った。
話が終わり退室する医師と入れ替わりに、一人の男が入ってきた。40代くらいだろうか。あまり高くない背と歳相応に見える肉付いた体型から柔和な印象を受ける。表情も柔らかく、丸い輪郭と眼鏡越しに見える深い笑い皺が彼の人柄を過不足無く表していた。
男は須藤春生と名乗った。
趣味の絵描きの為に山に入ったところ、倒れている彼を見つけ、病院に運んだのだと話した。
彼は礼をいい、少しだけ躊躇ったあと、自分が過去の記憶を失っていることを話した。
「自分の名前も思い出せないのかな?」
「はい。」
「何か覚えていることはある?」彼はしばらく考えたがやはり、
「ないです、何も。」
「そうか」
春生は腕を組んでしばらく考え、おもむろに言った。
「君は、今、新しいキャンバスを立てた。」
「…え?」
「君の記憶は戻るかもしれない。戻らないかもしれない。このままここにいることで今まで描いていた絵のもとに帰れる可能性だってもちろんある。だが、君は、幸いにも、ここから新しい絵を書き出すという選択肢もある。偶然にも僕はそれを手伝う余裕があって、そういうつもりもある。見たところ君は自分の過去に拘ってはいないようだ。ここに留まっても筆は埃を被る一方だと僕は思うよ。君次第だがね。」
確かに彼は自分の過去に拘ってはいなかったし、彼の言うことはもっともだと考えた。
「迷惑ではないのですか?」
「言っただろう?僕は、そういうつもりになっている。嫌ならこんなこと言い出したりはしないさ。」
ふとカーテンが揺れ窓の外が見えた。
知らない景色だった。知らないビルと知らない川があった。もしかしたらそれは知っていたはずの景色かもしれない。
分からない。
ならそれはそれでいいのだと彼は思った。これから知ればいい。彼の過去は不確かなものだが、先は確かにあった。