「問題は自我にたいして

   どのように反応するかではなくて

   自分は何だと信じるかだ。

 

   信じることは

   自我のはたらきであり

   自分の起源について

   信じるかどうかの余地がある限り

   あなたはその問題を

   自我の視点から見ている。

 

   教えることがもはや

   必要でなくなったとき

   あなたはおのずと神がわかってくる。

 

   もう一つ他に

   知覚のしかたがあると信じるのは

   自我の考え方でできる

   最も崇高な想念と言える。

 

   なぜならそれには

   自我は真の自己ではないと

   気づいた気配があるからである」

 

 

奇跡の道

第四章 自我の錯覚

二 自我と間違った自立 より

 

 

*****

 

 

私はよくブログに

自我、ジーガ先生

そういった呼び方をして

自我について書く。

 

それは上の言葉にあるように

自我に対してどう反応するか

という視点でのものが多い。

 

その根源には

 

「自分は何だと信じるか」

 

という

いちばん重要なことが

あることを

忘れないようにしようと

あらためて思う。

 

それがあってこその

自我が言うことを信じない

ということであって。

 

そうでないと

自我と自我の罵り合い

自我と自我の敵対

そんなものになってしまう。

 

それ自体がもう分離であり。

 

 

 

「自分は何だと信じるか」

 

その「何」とは

霊(spirt)であると

いうこと。

 

スピリチュアルな

考え方、捉え方で

よく私たちの本当の姿は

魂であるということを

 

もうすでに

情報として受け取っている人は

とても多いだろうし

そう考える人も多いだろう。

 

私もそのひとりだ。

 

そして

それを信じるのであれば

それに基づいた考え方をするのが

妥当であるのだけど

 

情報として知っていること

そういう考え方が好きなこと

見えないものに頼ること

 

それが

スピリチュアルな生き方をすることと

履き違えたいたので

 

それに基づいた考え方を

しないでいた時期は

相当長かった。

 

 

 

本当に心の底から

自分が霊(spirit)だと

信じているのならば

 

それが魂でもいい

 

自分はスピリチュアルな

人間なんですと

言うのならば

 

自然と奇跡のコースにあるような

 

ま、奇跡のコースに

限らずね

 

そういう考え方を

するようになるのだなぁと

 

奇跡のコースを学んで

離れて(笑)

また戻って学んで

 

繰り返し、繰り返し

そこにある言葉を

噛みしめているうちに

思うようになった。

 

 

 

奇跡のコースわかった〜音譜

と思っていた頃は

実は何もわかっていなかったし

 

そして、今も
本当の意味ではわかっていない。

ただ
 

「もう一つ他に

   知覚のしかたがあると信じるのは

   自我の考え方でできる

   最も崇高な想念」

 

この記事でご紹介した

この言葉にあるように

 

自我の考え方でできる

最も崇高な想念を

自分のものにした方が

とても幸せであることを

体験して、知って

それを行なっていると言える。

 

信じたものに基づいて考えている。

そういう思考を選択している。

 

 

 

なもんだから

 

「自分は何だと信じるか」

 

をあっちの方にすっ飛ばし

 

「自我にたいしてどのように反応するか」

 

にばかり
目が行ってしまうと

 

ただのゲームみたいに

できた、できない

勝った、負けた、が

重要だと勘違いし

 

本末転倒なわけだ。



奇跡のコースを
何度も読み返しているけれど
読む度に何か発見がある。

奇跡のコースは
筋トレみたいだと
いつも思う。

繰り返す。
ひたすら繰り返す。

筋トレを
一度学んだからと言って
筋トレの結果は出ない。

ましてや
それで筋トレのことが
わかるはずもない。

学んだらやってみる
正しいやり方でやってみる。
繰り返し、繰り返し、やってみる。

やりながら学ぶ。

そのうちにそれが自然に
自分のものになっていって
結果も出てくる。

出た結果で
ああ、筋トレって効くんだな
って思うようになる。

そんな感じに似てるなぁって。



自我は敵じゃない。
なくすべきものでもない。

本来ないから。

私たちの本当の姿が
霊(spirit)なら本来ないんだ。

神の子だからね
神に自我というものがないように
神の子にもない。

この世界では
奇跡のコースを触れるにも
それだけでなく
スピリチュアルなことに触れるにも
自我が触れるのだ。

自我にも
マシな自我と
ろくでもない自我が
あるということであり

   本当はないけど
   この世界目線で言えばね(笑)


自我も成長するんだなぁと
思ったりね。



そう思う時

神から分離し
この世界を生きるために
私たちが自我を作ったのに

その自我が
この世界ではない
本当の世界に戻ることを
考え始めるなんて

結局私たちは
どこまでも大きな愛に
包まれていて

元に戻る以外
道はないんだなぁなんて
思ったりする。

 

 

 

 

 

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