ブッダの教えの中に

評判になっているもの
理論にかなっているもの
信頼できる人の話
自分の師などの話

そうしたものを
信じてはいけない
というものがある。

 


最後の教えとも言われるのが
自灯明(じとうみょう)であり
 

他の人に頼ることなく

法(ここではブッダの教え)を

よりどころとして

 

その上で

自分の心をよりどころとして

生きるようにと伝えるもの。

 

私(ブッダ)を信じるのではなく

教え(仏教)を信じるようにと

解いたそうだ。

 

 

 

私はこの話が大好き。

 

 

 

神社の拝殿には鏡がある。

八咫鏡(やたかがみ)

と言うようだ。

 

 

参拝する時

そこに写るのは自分。

 

「鏡(かがみ)」の

「が」を取ると「かみ」。

 

「が」は「我」であり

 

鏡に映った自分から

「我」がなくなると

「かみ」つまり「神」になる。

 

近所の神社の宮司さんから

聞いたお話の受け売りだが(笑)

 

自我がない時

人は神

 

そういうことか…

とあらためて

深く納得するこの頃。

 

 

 

私たちが

何かを伝えたり

何かを提供したりする時

その「伝えるもの」ではなく

 

自分が前に出たくなる

つまり

 

目立ったり

認められたり

賞賛されたり

 

することに

心を奪われてしまうことがある。

 

その時

ブッダが言った

 

「私(ブッダ)を信じるのではなく

   教え(仏教)を信じるように」

 

ここから離れてしまう。

それは自分の体験からも思う。

 

そうなると

伝えていることが

伝わることが目的ではなく

 

「私」が前に出ることが

目的になってしまう。

 

同じものを

伝えるのかもしれない。

同じものを

提供するのかもしれない。

 

それでも

そこには明らかな違いが

生まれる。

 

 

 

自分が際立つのではなく

自分がしているものが際立つ

 

その美しさを

忘れずにいたいものだと

思ったのだった。

 

自分は常に

媒体であり

導体であることを。

 

その

よき媒体

よき導体で

あるからこそ

 

その人ありき、なのであり

 

その時初めて

伝えている、提供している

それと一緒に

本当の意味で

その人が際立つ。

 

 

 

よき媒体

よき導体であれば

そこを通って流れるものが流れ

自然によきように事は運ぶ。

 

それを

天の采配とも

言うのだろう。

 

その
「自然によきように」ではなく
私が、私が、私が、になると
「かみ」が「かがみ」に
なるのだなぁ。

 

 

自分にそういう考えが

あるとは言え

時に忘れてしまうこと。

 

襟を正す。

 

 

 

 

 

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