emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ -26ページ目
特別史跡
名古屋城
清洲城に行ってから「清州越し」を知り、
名古屋城のリア攻めはしたかったところです
「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は
慶長14年(1609)豊臣方への備えとして
名古屋城の築城と、清州から新城下への
街まるごとの引越しを決定「清州越し」
この新たに造られた基板割の街が現在の
名古屋の原型となっていて
町や橋の名前も受け継がれているそうです
先月、滋賀の長浜城下でも小谷城落城の後に
小谷の商人が長浜に移住した後に町名を
そのままにしたとあリました
慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって
徳川家康は西国大名20家に普請(土木工事)を
命じました(公儀普請)天下普請
「家康は口は出すが金は一文も出さない」
指名を受けた二十の大名は外様大名ばかりで
理不尽なこととはわかっていても
身の安泰のためには仕方のないことだったとか
このように石には刻印されているものが
ありましたが、
家康(公儀)は普請の分担があまりにも
細かく分割されていて何箇所にも分散されて
いたこともあり、石に刻印(刻紋)をして
区別したとか
石垣の刻印
「清正石」👇
清正石👇
本丸二之門の正面にある
「清正石」と呼ばれている石ですが
重さの推定は10トンとされています
名古屋城で最大の石垣石材
本丸搦手枡形の石材が巨大だったために
普請の名手とされる「加藤清正」が積み上げた
と伝えられていますが、
実際はここの担当は
黒田長政の担当だったそうです
加藤清正担当は
もっとも費用のかかる大小天守台の
工事を自ら申し出たともされているが
細かい分担で苦労している大名に比べて
1箇所だけ普請だけとなったということで、
他の大名からはある意味では
羨ましがられたとか
この反り具合(曲線)
「加藤肥後守
内小代下総」
加藤肥後守は「加藤清正」
内は家臣という意味で
小代下総と書かれているのは「小代親泰」のこと
「御深井丸」の方へ回って行き
茶席などもありましたが、
その前になぜか
石棺があり、その先へ回って行くと
茶席などもあり
🍁なんかチラ見して見ました🍁
👇
清正の石曳
巨石を運ぶにあたり、
清正自ら石の上に乗り
音頭をとったと伝えられていてその様子を
模したもの
👇
南蛮たたき鉄砲狭間
二の丸御殿御殿北御庭の北端の
石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構
この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に
堅固なものであり円形の鉄砲狭間が見られる
名古屋城の遺構としては非常に珍しいもの
見逃しちゃいそうでした
こんにちは
主人が「加藤清正が出現しないと」と
嘆いているんです。
2人で「ニッポン城めぐり」の
アプリを入れていて
楽しんでいるのですが、
「尾張」地域の城を攻略しても
「加藤清正」が出現しなくって💦
名古屋城の「リア攻め」してないから?
という夫婦の見解でした⁉️
「名古屋城」は攻略済みなんですが
急遽「リア攻め」をするために
行って来ました

久々の「名古屋城」です。
やっぱりまずは加藤清正さんの前に
行って見たけれど、
出現しませんでした💦
ちょっと、気は焦っているけれど
名古屋城、楽しみたいと思います。
天気が悪くって…顔が見えない💦
名古屋城の中へ
前日にひとまず、Youtubeで
見どころを確認しておいたけれど、
「百聞は一見にしかず」
堀の中の木が色づいていました。
鏡石
至る所に大きい石があって、
さすが
「天下普請」
ですね。
「清正はここにもいなかった
」
気を取り戻して💦
名古屋城本丸御殿に入ってきました。
おっ、この絵は大河ドラマ「吉宗」の
オープニングででてきたような。
あとで見にいったのですが、
乃木倉庫というのが、
あったのですが、
昭和20年の名古屋大空襲により、
本丸のほとんどが消失してしまったのですが、
空襲が来る前に
絵や襖絵、欄間なども取り外して乃木倉庫に
しまっておいたので、
難を逃れたそうですよ。
平成21年(2009)から復元工事を
開始し、平成30年(2018)
6月8日に全体公開になりました。
本丸御殿は初代尾張藩藩主 徳川義直の
住居や政庁として使用するために
慶長20年(1615)に建てられ、
後に将軍専用の宿館となりました。
総面積は約3,100㎡、部屋数は
30を超える平家建ての建物です。
すごく広い。
京都の二条城よりも広いのかな?
見応えアリ❗️
続く…
加藤清正公の誕生地とされている
「妙行寺」の隣に
「常泉寺」がありました。
こちらは「豊太閤御誕地」とされています
案内板によると
この井戸は秀吉公当時、産湯に使われたと
伝えられ、近隣に類のない清水溢れる井戸と
伝承される
このところに秀吉公の命により寺を創建した時
「常に清水湧き出る」意味から
寺号を「常泉寺」と定める。
秀吉公が植えたと伝えられる柊があり
秀吉は1590年、小田原城攻めから戻る際に
この地に立ち寄りました
このとき寺を建立したいと思ってあたりを見ると
11歳の時に植えた柊が繁茂していたそうです
柊の花が咲いていて、とても良い匂いがしました
妙行寺・常泉寺と並んでいて、
その隣に「中村公園」があります。
その中には
見学しようと思っていたら
(12月7日)にいったのですが、9日まで
休み🎌とのこと。
残念😢
再来年の大河は「豊臣兄弟」
ゆかりの地として
色々と関係してくるのかな?
☝️
第二話の紀行で早速でてきました!
きっと記念館も出来上がっているのかな?
「行かなければ❣️」
伊勢神宮に仕える未婚の皇女(斎王)の宮殿が
置かれた
斎宮に歴史を紹介する博物館になっています。
令和6年3月に敬宮愛子内親王殿下が、
伊勢神宮へ参拝をされてから
こちらへ来館したことをニュースで知り、
この博物館のことを知って、
是非来て見たいと思っていました。
場所は
近鉄斎宮駅より徒歩で約15分
伊勢自動車道玉城ICより20分
松阪・伊勢市内より車で30分
斎宮(いつきのみや・さいくう)
常設展示室Iには斎宮が最も栄えた
平安時代を中心に、
斎王の誕生から斎宮での暮らし、
古典文学に描かれた斎王について
実物資料や模型、映像資料で紹介
1、斎王の旅たち
2、斎宮の造営
3、斎王の暮らし
4、斎王のつとめ
5、王朝文学の世界
6、斎王一覧
常設展示室IIは現在も継続して
行われている発掘調査の出土物
(重要文化財)を中心に
発掘現場や平安時代の斎宮を
復元した1/400模型などで、
斎宮跡の発掘調査成果などが紹介
7、斎宮再現
8、斎宮探求
9、斎宮の成立と整備
10、斎宮の隆盛と繁栄
11、斎宮解明
12、斎宮の衰退と消滅
中は見れたのですが、
ゆっくりと見られなかった。
今回は軽く見て、資料やガイドブックを
買ったので、また来てみたくなりました。
今回はこの後に
実在した最古の斎王は、673年に就任市、
泊瀬の斎宮を経て伊勢に入った、
天武天皇の娘、大来皇女の歌碑があると
いうので、近鉄「斎宮駅」の近くにいって
みてきました。
主人にはわたしが読んでいた
「天上の虹」を貸してあげて
読んだりしていたので、
この大来皇女(大伯皇女)と大津皇子の事は
知っていたので、一緒にみてきました。
また、駅前には
史跡斎宮跡を1/10に縮小した模型などが
あったり、
貴族の邸宅(寝殿造)を模した伝統的工法による
木造施設、いつきのみや歴史体験館があったり
史跡公園「さいくう平安の杜」がありました。
まったく下調べもしないで行ってしまったので
新たな発見💡をしてきました。
神宮と斎宮
こんな日帰り旅行も楽しかった❤️
竹神社を出て、駐車場に向かうと
名称 斎宮城(さいくうじょう)
築城主 野呂三郎
築城年 弘治元年 (1555年)
斎宮城は現在の竹神社境内にあったとされる城
野呂三郎が徳政を求めて一味と城壁を築いて
立てこもったが、伊勢の国司北畠氏によって
討伐されたとされています。
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