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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。


特別史跡

   名古屋城


清洲城に行ってから「清州越し」を知り、

名古屋城のリア攻めはしたかったところです


「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は

慶長14年(1609)豊臣方への備えとして

名古屋城の築城と、清州から新城下への

街まるごとの引越しを決定「清州越し」


この新たに造られた基板割の街が現在の

名古屋の原型となっていて

町や橋の名前も受け継がれているそうです

先月、滋賀の長浜城下でも小谷城落城の後に

小谷の商人が長浜に移住した後に町名を

そのままにしたとあリました


慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって
徳川家康は西国大名20家に普請(土木工事)を
命じました(公儀普請)天下普請
「家康は口は出すが金は一文も出さない」
指名を受けた二十の大名は外様大名ばかりで
理不尽なこととはわかっていても
身の安泰のためには仕方のないことだったとか








このように石には刻印されているものが

ありましたが、

家康(公儀)は普請の分担があまりにも

細かく分割されていて何箇所にも分散されて

いたこともあり、石に刻印(刻紋)をして

区別したとか



石垣の刻印





「清正石」👇






清正石👇











本丸二之門の正面にある


「清正石」と呼ばれている石ですが


重さの推定は10トンとされています


名古屋城で最大の石垣石材


本丸搦手枡形の石材が巨大だったために

普請の名手とされる「加藤清正」が積み上げた

と伝えられていますが、

実際はここの担当は


黒田長政の担当だったそうです





加藤清正担当は

もっとも費用のかかる大小天守台の

工事を自ら申し出たともされているが

細かい分担で苦労している大名に比べて

1箇所だけ普請だけとなったということで、

他の大名からはある意味では

羨ましがられたとか








この反り具合(曲線)







加藤肥後守
  内小代下総





加藤肥後守は「加藤清正」
内は家臣という意味で
小代下総と書かれているのは「小代親泰」のこと












「御深井丸」の方へ回って行き

茶席などもありましたが、

その前になぜか




石棺があり、その先へ回って行くと

茶席などもあり


















🍁なんかチラ見して見ました🍁





👇


清正の石曳


巨石を運ぶにあたり、

清正自ら石の上に乗り

音頭をとったと伝えられていてその様子を

模したもの






👇


南蛮たたき鉄砲狭間


二の丸御殿御殿北御庭の北端の

石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構

この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に

堅固なものであり円形の鉄砲狭間が見られる

名古屋城の遺構としては非常に珍しいもの

見逃しちゃいそうでした








くもりこんにちはくもり


主人が「加藤清正が出現しないと」と

嘆いているんです。


2人で「ニッポン城めぐり」の

アプリを入れていて

楽しんでいるのですが、

「尾張」地域の城を攻略しても

「加藤清正」が出現しなくって💦


名古屋城の「リア攻め」してないから?

という夫婦の見解でした⁉️


「名古屋城」は攻略済みなんですが

急遽「リア攻め」をするために

行って来ました爆笑飛び出すハート


久々の「名古屋城」です。



やっぱりまずは加藤清正さんの前に 

行って見たけれど、

出現しませんでした💦

ちょっと、気は焦っているけれど

名古屋城、楽しみたいと思います。




天気が悪くって…顔が見えない💦



名古屋城の中へ音譜










前日にひとまず、Youtubeで

見どころを確認しておいたけれど、


「百聞は一見にしかず」














堀の中の木が色づいていました。



鏡石


至る所に大きい石があって、

さすが


「天下普請」


ですね。






「清正はここにもいなかったガーン泣




気を取り戻して💦



名古屋城本丸御殿に入ってきました。















おっ、この絵は大河ドラマ「吉宗」の

オープニングででてきたような。



あとで見にいったのですが、






乃木倉庫というのが、

あったのですが、

昭和20年の名古屋大空襲により、

本丸のほとんどが消失してしまったのですが、

空襲が来る前に

絵や襖絵、欄間なども取り外して乃木倉庫に

しまっておいたので、

難を逃れたそうですよ。

平成21年(2009)から復元工事を

開始し、平成30年(2018)

6月8日に全体公開になりました。


本丸御殿は初代尾張藩藩主 徳川義直の

住居や政庁として使用するために

慶長20年(1615)に建てられ、

後に将軍専用の宿館となりました。

総面積は約3,100㎡、部屋数は

30を超える平家建ての建物です。













天上一面絵が描かれるそうですが、

途中だそうです












すごく広い。


京都の二条城よりも広いのかな?

見応えアリ❗️




続く…

















加藤清正公の誕生地とされている

「妙行寺」の隣に


「常泉寺」がありました。


こちらは「豊太閤御誕地」とされています

















案内板によると


この井戸は秀吉公当時、産湯に使われたと

伝えられ、近隣に類のない清水溢れる井戸と

伝承される

このところに秀吉公の命により寺を創建した時

「常に清水湧き出る」意味から

寺号を「常泉寺」と定める。






秀吉公が植えたと伝えられる柊があり

秀吉は1590年、小田原城攻めから戻る際に

この地に立ち寄りました

このとき寺を建立したいと思ってあたりを見ると

11歳の時に植えた柊が繁茂していたそうです







柊の花が咲いていて、とても良い匂いがしました





妙行寺・常泉寺と並んでいて、
その隣に「中村公園」があります。

その中には







があるんです。


また、中村公園を挟んで反対側には








見学しようと思っていたら

(12月7日)にいったのですが、9日まで
休み🎌とのこと。

残念😢


再来年の大河は「豊臣兄弟」


ゆかりの地として
色々と関係してくるのかな?


☝️

第二話の紀行で早速でてきました!

きっと記念館も出来上がっているのかな?

「行かなければ❣️」













伊勢神宮に仕える未婚の皇女(斎王)の宮殿が
置かれた
斎宮に歴史を紹介する博物館になっています。

令和6年3月に敬宮愛子内親王殿下が、
伊勢神宮へ参拝をされてから
こちらへ来館したことをニュースで知り、
この博物館のことを知って、
是非来て見たいと思っていました。

場所は
近鉄斎宮駅より徒歩で約15分
伊勢自動車道玉城ICより20分
松阪・伊勢市内より車で30分






斎宮(いつきのみや・さいくう)

常設展示室Iには斎宮が最も栄えた
平安時代を中心に、
斎王の誕生から斎宮での暮らし、
古典文学に描かれた斎王について
実物資料や模型、映像資料で紹介

1、斎王の旅たち
2、斎宮の造営
3、斎王の暮らし
4、斎王のつとめ
5、王朝文学の世界
6、斎王一覧


常設展示室IIは現在も継続して
行われている発掘調査の出土物
(重要文化財)を中心に
発掘現場や平安時代の斎宮を
復元した1/400模型などで、
斎宮跡の発掘調査成果などが紹介

7、斎宮再現
8、斎宮探求
9、斎宮の成立と整備
10、斎宮の隆盛と繁栄
11、斎宮解明
12、斎宮の衰退と消滅


少し行くのが遅かったガーンあせる

中は見れたのですが、
ゆっくりと見られなかった。
今回は軽く見て、資料やガイドブックを
買ったので、また来てみたくなりました。




今回はこの後に

実在した最古の斎王は、673年に就任市、
泊瀬の斎宮を経て伊勢に入った、
天武天皇の娘、大来皇女の歌碑があると
いうので、近鉄「斎宮駅」の近くにいって
みてきました。


主人にはわたしが読んでいた
「天上の虹」を貸してあげて
読んだりしていたので、
この大来皇女(大伯皇女)と大津皇子の事は
知っていたので、一緒にみてきました。





















また、駅前には





史跡斎宮跡を1/10に縮小した模型などが

あったり、

貴族の邸宅(寝殿造)を模した伝統的工法による

木造施設、いつきのみや歴史体験館があったり

史跡公園「さいくう平安の杜」がありました。



まったく下調べもしないで行ってしまったので

新たな発見💡をしてきました。


神宮と斎宮

こんな日帰り旅行も楽しかった❤️





竹神社を出て、駐車場に向かうと









名称 斎宮城(さいくうじょう)


築城主 野呂三郎

築城年 弘治元年 (1555年)



斎宮城は現在の竹神社境内にあったとされる城


野呂三郎が徳政を求めて一味と城壁を築いて

立てこもったが、伊勢の国司北畠氏によって

討伐されたとされています。


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