養宜館跡…淡路島 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

「養宜館」(やぎやかた)という居館、

分類的には「平城」が

あったとされているところが

ありました。





古来より淡路の中心として栄えていた地域らしく

近くには国分寺や

見つかってはいないらしいが、

「国衙」とつく地名が残っていると書いてあるので

地図上でみてみる確かにあったし、

「国衙薬師堂」があったり、

その所在地は

兵庫県南あわじ市神代国衙となっているので

未発見ながらもこのあたりだった?

「倭文」という地名があり、

「しとおり」と読むそうですが、

「倭」という文字を使う地名というだけで

少し気になって調べてみました。

このあたりでは織物をする集団がいたそうですよ

「忌部氏」というのがキーワードな感じがします。


暦応三年(1340)、

足利尊氏が細川師氏に

淡路平定を命じ、「立川瀬の戦い」で

南朝方(国衙の在庁武士宇原兵衛ら)を破り、

養宜館に入り守護大名となりました。



薬師堂


養宜館は中世以来大土居と呼ばれ、

南北朝時代から室町時代にかけてかけて180年余り7代に

かけて細川氏の居館でもあり、政庁(公庁)でもありました。

1336年に足利尊氏が京で敗北して九州に落ちたものの

細川和氏を四国に派遣して戦功を得て、

その後和氏の弟の師氏に阿波から淡路へ侵入させ南朝連合を

破ったという経緯






永正16年(1519)、七代尚春が阿波で三好勢に

謀殺され、その後間もなく養宜館が廃されたと

云われています。


ここは、中世前期形式をもった城郭であることから、

鎌倉時代の淡路守護であった長沼氏の居館であったと

考えられている。


1979年に調査が実施されて細川氏以前のものが

出土していることなどから

築城年は1340年とされているが

鎌倉時代に長沼氏の居館で在ったとも考えられる

ようになっている。

鎌倉時代の承久3年(承久の乱後)淡路国守護職に

長沼宗政が補任され、鎌倉末期まで長沼氏に相伝されている


長沼宗政は下野国の小山政光の次男。
結城朝光の兄