朽木陣屋… | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

金ヶ崎から「退き口」というように

撤退をした信長。


往路は意気揚々と若狭へと行ったものの、

帰路は一目散で帰ったことだろう。


朽木陣屋跡(朽木城)







信長の余儀なく撤退、退路時は数十騎で若狭より

鯖街道と呼ばれている

山道を通ったと言われている。


現在の高島市朽木では「信長の隠れ岩」と

呼ばれる大岩がある。


この撤退途中、この大岩で地元領主である

朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が

確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつ

だそうです。


この鯖街道には昨年、京都の出町柳という

鯖街道の始まるところから進んで、京都の大原を

抜けて

途中、





「途中」という

交差点を真っ直ぐに日本海の方へ進む

山を越えて、福井若狭に出た時がありました。


いつもはその「途中」という交差点を京より行くと

それを右に回って琵琶湖へと出ていました。


それなりに整備はされていますが、

険しい道でした。


その後に「朽木」というところに出て

城跡、実際には江戸時代に整備された

「朽木陣屋跡」がありました。


初めはこれが信長の「金ヶ崎の退き口」

の撤退路とは知らなくって後からびっくりしたものです。


そんな経緯で最初はたまたま通ったところでした。




昨年の「鎌倉殿の13人」で佐々木秀義が登場しましたが

源頼朝の河内源氏に対して、

佐々木秀義は宇多源氏(近江源氏)、

この佐々木秀義の孫の佐々木信綱から始まっています。


江戸時代に朽木氏が本拠として城館で、

若狭街道と琵琶湖からの街道が合流する、交通の要衝に

立地しています。

近年行われた発掘調査の結果、室町時代の朽木城も、

この位置の重複していることがわかってきている



佐々木信綱の

     庶長子・重綱(大原氏)

  次男・高信(高島氏)

  三男・泰綱(六角氏)

     佐々木氏の宗家となる

  四男・氏信(京極氏)


その次男・高信が引き継いだ所領が


近江国高島郡朽木庄の地頭職を与えられて


その後、高信の次男・頼綱に受け継がれ、


頼綱の三男・義綱朽木氏を称したのに

始まる。


宗家である高島氏は高信の長男・泰信が継承。



朽木氏とはどういう血筋なのかを考えて

いくと、信長の退却の手伝いをしたのか

見えてきます。

退却時に当時は朽木元綱は松永久秀の説得を

受けてこの山(朽木越え)の案内役を

させたとか云われています。

近くには信長が朽木元綱の返事、敵意がない事の

確認があるまでは

隠れていたという「信長の隠れ岩」もあります。


こうして難所を切り抜けて京都へ入って

いったと伝わります。


また、この鯖街道の始まりの出町柳には

信長の霊廟の一つでもある

「阿弥陀寺」もあります。



ちょっと話はそれますが、

今回大河ドラマ「どうする家康」第18回では

家康さえ生きていればと夏目広次(吉信)が

言ってたのを思いだしました。




なるほど…です。



朽木城、江戸時代になると

朽木陣屋がおかれていたそうです。


















広場になっていましたが、

このあたりが中心らしいです。



陣屋跡付近には↓



蕗のとうですね。


可愛い❤️でも





こんなにあるとは…



こんなにたくさんあるところは

初めてみました。