小浜城 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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小浜城は、若狭国遠敷郡小浜にあった

日本の城(海城)である。

別名・雲浜(うんぴん)城ともいう。











関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった

京極高次が慶長6年(1601年)、

北側、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に

難攻不落を誇る水城として、築城を始めた。

別名を「雲浜城」とも呼ばれる。

寛永11年(1634年)京極忠高が出雲に移封

となり、酒井忠勝が武州・川越より

若狭11万3千五百石の藩主となり、天守閣の

造立に着手、寛永19年(1641年)四十余年

の歳月をかけて小浜城は完成をみた。

以来、酒井家14代、237年間の居城となり、

廃藩置県を迎える。

明治4年(1871年)12月、大阪鎮台分営

設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の

大部分を消失して現在は本丸の石垣を残すのみ

となった。






若狭湾(海)が少し見えました。


説明板より

江戸時代初期に、京極家により、

後瀬山城に代えて、海と河川と湿地に囲まれて

築かれた海城である。

1601年、京極高次の代に着工され、

京極家2代に渡って普請工事が行われたが、

完成を見ずして京極家は、

出雲国松江に加増転封された。

代わって入府した酒井家が二条城の様式を

取り入れるなど、大幅に城の縄張りを

変更し、本丸天守を造営、その8年後の

1642年に小浜城を竣工した。

以降、若狭酒井家の居城として

明治を迎えた。


慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで功績が

あった京極高次が若狭国を拝領、

後瀬山城本丸は、標高が高すぎ、麓の

旧守護館は、近世大名として政務を執るには

狭すぎたため、慶長6年(1601)北川と

南川と小浜湾の三角州に新たな居城(小浜城)

の築城に着手し始めた。


城地総面積  62.492㎡

本丸面積   10.347㎡


昭和31年3月12日、福井県史跡として

指定を受け、城地に藩祖・酒井忠勝公を

祀る小浜神社がある













梅田雲浜(うめだうんぴん)

文化12年(1815年)〜安政6年(1859年)


文化12年(1815年)小浜藩士・矢部義比の

次男として出生。

藩校「順造館」に学んだ。

天保14年(1843年)に藩の塾「望楠軒」

(京都)の講師となる。

嘉永5年(1852年)、海防策に関する意見書を

時の藩主・酒井忠義に提出したことが藩主の

忌諱に触れて版籍を剥奪された。

翌年のペリー来航とともに条約締結反対と

西欧列強排斥のいわゆる「攘夷」を唱えて

幕政を批判した。

また、上方と長州の物産交流促進に従事、

将軍家の後継問題のほか日米修好通商条約

締結問題では一橋慶喜派を擁護するなどし、

これに呼応する志士の先鋒となり、

安政5年(1858年)、大老・井伊直弼が

断行した安政の大獄にて捕縛された。

捕縛後、京都から江戸へ移送され、翌年

獄中で病死した。

             パンフレットより