忍びの里(甲賀・伊賀)
百地砦跡は、百地丹波守の居城と
伝えられています。
戦国時代の忍者。
伊賀流(百地流)忍術の創始者と言われ、
伊賀三上忍のひとり。
上忍三家
⚪︎ 服部半蔵
⚪︎百地丹波
⚪︎藤林長門守
百地氏は天文13年(1544年)の史料に
「喰代(ほうじろ)もゝ地殿」と見え、戦国時代には
有力な土豪として知られていたようです。
この城跡は、東西約250m、南北約60mで、
市内でも有数の規模のものです。
城跡nの構造は、丘陵尾根を削平して造った
四つの郭(左図のA〜D)を連ねて配置
しています。この中で郭Cは約70m×約40m
と最も大きく、三方の土塁を築いているほか
南側に自然地形を利用した堀、東側に堀切
があります。また、周囲に小さい郭を設け、
郭Cへの進入路を屈曲させるなど、防御の
ための工夫を凝らしていることから、城跡の
中心部分と考えられます。
主郭を巡る土塁は、北側と西側の土塁の外側
は崩れが著しく、工事により保護されて
いますが、内側は残りがよく、当時の様子を
うかがうことができます。
東側の土塁は主郭のなかで最も高く、頂部
が広くなっていることから、
かつては見張り台のようなものが
あったと考えられます。
また、南側の土塁は、他と比べて低い事から
当時は土塀があったのかもしれません
百地丹波守砦跡由来記
戦国期(1500年〜1600年)に、伊賀忍者
の二大巨頭の1人として鞆田村の
藤林長門守に拮抗して南伊賀に勢力を張って
いた伊賀流忍百地丹波守はこの地を根拠地
としていた四囲の土壁は天然地形に
若干の人工を施しているが、
天然密室を形造っている。
壁内に廣さは約300坪、この中に三太夫の
館はもとより、忍者の集会所家人どもの
住居もびっしりと建てられていたのだ
天正9年伊賀の乱(織田信長の伊賀攻略戦
その時百地丹波守は最後にはその分城近くに
ある名張郡柏原村のとりでに籠り城開場とと
もに行方不明になっている)
の際自ら焼き放ったものと考えられるが
今は全く跡形もなくなっている。
砦の近所の百地家菩提寺青雲寺には
喰代百地家代々の墓がある外、
本覚了誓禅門の名を残す過去帳があり、
藤林と百地は同一人ではないかと言う
疑いを濃くしている。
百地家の家紋
家紋は、七曜星に二枚矢羽、矢ちがい
矢羽紋よりして、百地氏が服部の出で
あることは、明らかであると思われる
臨 りん
兵 ぴょう
闘 とう
者 しゃ
皆 かい
陣 じん
列 れつ
材 ざい
前 ぜん
この文字は九字護身法という忍者が精神
集中や厄除けの手段として用いた呪文