””””鎌倉殿の13人…第7話 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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第7話 「敵か、あるいは」


都の様子から始まって

福原(現在の神戸)に幽閉中の

後白河院法皇と平清盛が関東での

頼朝の動勢を話していました。

高倉院や安徳天皇を連れてきて、

京に置いておくには行けない後白河院も

一緒にきていただくしかなかったので

でしょう。


福原に遷都していますね


平安末期から鎌倉時代は

公家社会から武家への転換気でも

あったのですけれど、

経済も大きく移り変わる時代だったのです。

時代になるとも言えます


日宋貿易の拠点だった福原では

宋銭というものが大量に入るようになり

売買では宋銭という貨幣を用いる様に

なっていったのです。(貨幣経済)

従来は絹や布がお金の代わりに

なっていました。


後白河院は従来の経済方法で

平清盛は貨幣経済という

対立でもあったのです


後白河法皇の隣にいる丹後局(鈴木京香)が

とても気になります。

清盛が大庭景親の報告で

「源頼朝が伊豆目代の首を取った」

と告げると


「まぁ〜」

と言いながら顔を背けて

ほくそ笑んでいました。

口角を少し上げただけなのに

何という演技


その後、

「大庭の軍勢が完膚なきまでに叩き潰した」

ことを告げると


その後に


「頼朝はどうしたのですか?」


「死んだ」


「おっ」


丹後局の声が何とも言えませんでした。



安房では

和田義盛と北条義時が

「上総広常」へ


安達義盛が

「千葉常胤」のところへ



「上総広常」と「千葉常胤」



安房、上総、下総の位置関係は
現在の感覚から行くと上総と下総が反対な
感じがしますが、
都から近い方が「上」とおもわれますが、

大和政権時代はルートが違ったのです。

都から太平洋岸を陸路東に向かい、
相模→東京湾→房総半島に
海路だっらしいのです。
北上して、(安房)→上総→下総だったので
都からは今の上総の方が近かった様です。

その後の平安時代あたりになると
無理して内陸を移動したとはいっても
そのままの地名になってしまった様です。

「上総広常」「上総介広常」役の
佐藤浩市はやはり
渋みが出てきましたね。ちょっと
声が掠れているかな?

「この戦、俺のついた方が勝ちだよ」

2万の軍勢は私も誇張じゃないかなぁと
思いますし、
映像ではすごく長い隊列でしたので
2万だと先にいる人と、最後についている人が
たどり着くまで一日以上かかってしまうかも
しれません。

桓武平氏良文流、房総平氏、上総氏
官位は上総権介、通称介八郎らしいので
8男だったとされています。

千葉常胤も
「小さくおさまったな、介の八郎」
「坂東の暴れ馬とも言われた男が…」

平治の乱では、源義朝の庶長子である
源悪源太義平の17騎の一騎として活躍
していますね。敗戦後は上総へ逃げ延びて
きたものの、内紛や周囲からの圧力などで
大変だったとも言われています。

それは千葉常胤も一緒で
桓武平氏良文流の同族として外部との
軋轢で大変だったのです。
このまま平氏の時代ではどうしようもないし
兵の数300騎とも言われている
小豪族としては
「乗らない手はない」です。

せっかく眉毛を剃ってまで気合を入れたのに
門前払いされてしまった和田義盛は
吾妻鏡では
「千葉常胤に相談した上で参ります」
と和田は報告したようです。

「頼朝は天に守られている?」

三谷さんらしいです。

亀の前と、長狭常伴のことを
一緒にして話を進めてしまいました。
警護に三浦をつけて…

三浦と長狭は争っていました。
三浦は安西に娘を嫁がせているとも言われ、
長狭(平氏方)を滅ぼしました。

亀の前がこんなに早くでてくるとは
思わなかったのですが、
政子対亀の前はどう描くのか楽しみです。

それにしても、
ガッキー八重さんは前回とうとう
一縷の望みだった千鶴丸が亡くなっているのを
知り、伊東祐親に本当の事を聞きに行きました。
まだ、子どもが生きているから
伊豆権現で、強気になれたけれど
これからは言えないですよね。

さて、なんだかんだと言っても
源頼朝も兵が一気に膨れ上がりました。

「いざ、鎌倉へ」にはまだ遠いのかな?

奥州藤原秀衡もしぶいなぁ、
初々しい義経。

伊豆権現に来た「全成」義経の上のお兄さん

登場人物また、登場してきました愛




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