第1415番 たまづさの 妹は玉かも あしびきの 清き山辺に 撒けば散りぬる(作者不明)
わが愛する女性は玉になったのだろうか。清らかな山辺に撒いたら散ったことだ。
玉というから、これは、遺骨なのだろうか。
撒けば散りぬる、というから、細かく砕いた遺骨を山に撒いたということなのだろう。
当時は墓の観念はあまりなく、山や海に葬るという形態をとることが多かったのかもしれない。
ここでは死というものを取り上げようと思う。
撒けば散りぬるというのは、一なる存在であった愛する人が、数多のものに還っていくことを歌っているように思える。
しかし、ここで数多のものに還っていったのは、神と呼び合う内なる魂が着ていた肉体である。
愛する人が纏っていた肉体が数多のものに還っていったと解するのが正当であろう。
愛する人そのもの、すなわち、肉体を纏っていた愛する人の魂はやはり一なるものとして残るのである。
魂は数多のものには還らない。
愛する人を悼む心に応じるものとして、愛する人の一なる魂があるはずである。
ただ、古代の人は、魂が分かれるということを考えていたものらしい。
ものに魂が宿るという発想である。
ものに魂が宿るならば、数多のものに還っていった肉体にも魂が宿っているはずで、したがって、肉体が数多のものに還るように、肉体に宿っていた魂もまた、数多のものに還るのではないか、と。
ここには、二つの相異なる魂に対する捉え方があるのであろうか。
今に古代の人の心を引き継ぐ神社の人に聞けばわかるかもしれない。
それは置くとして、ここでは、一なる魂が数多のものである肉体を纏ったということについて考えたい。
一なる魂が数多のものである肉体を纏ったというのはどういうことだろうか。
それは、魂が呼び合う神について考えることで明らかになるであろう。
神は、どのようにしてこの世界に顕現するであろうか。
それは、世界の姿としてである。
世界は、神が自らを顕すために創造したものと考えることができるのである。
人は、世界を通して神に触れ、神を見るのである。
同じように、人の内なる魂もまた、この世界に自身を現すために肉体を持ったのである。
肉体は、この世界を生きるために、あなたが身に纏った衣装なのである。
すると、死は、あなたが纏った肉体という衣装を脱ぐことにほかならない。
つまり、死は肉体が滅んだことであって、魂が滅んだことではないのである。
それは、神が自らを顕すために世界を創造する以前のものに戻るということなのだ。
といっても、それが、なにを意味しているのか分かりにくいであろう。
ところで、魂が肉体を持つというのは、アリストテレスの形相(エイドス)についての考えを想起させるであろう。
このエイドスの考えは、プラトンのイデアに対する批判から生まれた考え方である。
プラトンは、この世界は真実のものではなく、真実はイデア界にある。
イデア界にあるさまざまなイデアが、この世界を形作っていると考えた。
つまり、イデアが世界という肉体を身に纏っているのである。
人は、イデアが仮初に纏っている世界を通して、この世界ではない、真実の世界を想起しながら生きているというのである。
これを現実に即した生き方ではないと批判したのがアリストテレスである。
この世界の別のところに生きるべきものがあるのではなく、現実のものにこそ生きるものがあるのだ、と。
アリストテレスが考えたのが、形相(エイドス)である。
エイドスは現実を作っているものということでは、プラトンのイデアに似ている。
しかし、エイドスは現実そのものである。
エイドスは、人と交わるとき、質料というものを持つ。
それは、いわば世界という肉体である。
具体的な物質なり観念なり(観念もまた物質と同じように捉えられるのだ)を纏うことで、エイドスは生きられたものになるのである。
エイドスを具体的に存在たらしめている質料は消耗され無くなるが、エイドスはなんら変わることがない。
机を成さしめている質料は毀れるが、机というエイドスは人の内に残るのである。
形相と質料の関係は、肉体と魂の関係と似ている。
肉体もまた、消耗され、やがて朽ちて大地に還るのだ。
しかし、その肉体を着ていた魂の方は、人たちの中に残るのである。
実証主義の考えからすれば、なんら実証することができぬことであろう。
実際にそのようになっているのかは知りようがない。
しかし、われわれの内に確信としてある知が、真実であると、それを語っているのである。
一なるものとはなんであろう。
一なるものがあるとすれば、それは数多のものに還らない、なにか不変的なものなのである。
一なるものから、あなたの魂は形作られたのである。
もし一なるものがなければ、あなたは、どのようにしてあなたであることができるであろうか。
また、一なるものから、というときの一なるものに、神を認めることで、あなたは一なる魂を生きてきたのであった。
それ以上のどんな答えを見つけることができるであろう。
ここで、唯名論の論者ウイリアム・オブ・オッカムを思い浮かべよう。
彼は、あらゆる観念は現実的ではない。それらは人が作り出したものにすぎない。
また、神についてなにか述べたりすることもできない。
ただ、生きられた事実こそが大事である。
それが真実であるかどうかはどうでもよいことなのである。
実は、生きられたこと自体が真実そのものであることを示しているのである。
なぜなら、それこそ、神が創造したものなのだから。
それは、聖フランチェスコの修道士会が説いた神の照明説(数多のものに神の光が宿っているとする説)の行き着いた先の思想である。
神についてどうこう言うのは人間の勝手であって、それよりも、神が創造したこの現実世界こそ生きるべきものなのである。
現実は観念ではなく、実感として生きられるべきものだ。
そして、それこそが真実である。
愛する人の肉体は滅んで大地に還っていっても、その魂は、愛する人を悼む人の内で生き続けるのである。
*
前回、ひとまず終えますと断っておきながら、すぐまた追加することにしました。まだまだ万葉集について書くことがありそうです。
***
「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。
【自著のご案内】
以下、アマゾンストアにて販売中です。
<既刊>