第1912番 たきまはる 我が山の上に 立つ霞 立つとも坐(う)とも 君がまにまに(作者不明)
我が山に立つ霞のように、あなた様の意のままに 立てと仰れば立ち、坐せと仰れば坐しましょう。
相手の思うままに生きることをなによりも幸いと感じる心を歌ったものである。
誰かのためになれる自分、しかも誰かとは不特定多数の誰かではなく、自分が大切に思う相手である。
自分が大切に思う相手のためになれる自分を誇らしく思う。
これが愛である。
愛とは、相手のために生きることなのだ。
そして、相手のために生きることをなによりも喜びを感じることができることこそが、幸いなのである。
ところで、人は自分一人では生きていない。
誰かとのかかわりの中で生きているのである。
それは、他から自分が在らされているということである。
もちろん、他もまた、自分とのかかりの中で在らされているのである。
自分と他とは互いに在らされ合っているのである。
そして、自分が何か成すこと、何か思うこともまた、他とのかかわりの中で与えられているのである。
このことをよく語っている哲学者がいる。
エチカの著者スピノザである。
スピノザは、人には自由意志というものはない、と言った。
人は、生まれながらに他から与えられたものを生きているのである。
自分一人で完結するものはないと言っていい。
自分と思っているものも実は他から与えられ、作られたものなのである。
自分の中に他がいるのだ。
そして他もまた。
とくに自分が思う相手は、自分が相手から受け取ったもので作り上げたものなのだ。
純粋に自分だけのものとか、純粋に相手だけのものというものはないと言っていい。
その意味で、自分は他の一部であり、他は自分の一部であるのだ。
愛はまさにこのところに根差した活動なのである。
すなわち、他を自分自身のように感じ、他のために生きる自分を幸いと感じるということ、それが愛なのだ。
それは、生きとし生けるものを包み込む。
あまたのものは、愛で結ばれているのであえる。
スピノザは、万物に神が宿っているといった。
これは、一見聖フランチェスコの神の照明説と似通っている。
しかし、聖フランチェスコは、神は一者であり、その一者である神から万物に光が射し照らしているとするのに対して、スピノザは、万物が神そのものであるとするところが大きな違いであり、それは、汎神論と呼ばれている。
スピノザにおいては、あらゆるものは神の一部であり、これが神と言われるものはないのである。(それよえキリスト教会から無神論と批難された)
強いて言えば、万物の原理が神の精神を表したものになるのである。
スピノザは独自の汎神論の下に、人間の原理を研究した哲学者だということが言えるであろう。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





