水底の玉さへ鮮に見ゆべくも~あなたの貴さを証するために神は存在している | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

第1082番 水底(みなぞこ)の 玉さへ鮮(さや)に 見ゆべくも 照る月夜(つくよ)かも 夜の更けぬれば(作者不明)

 

夜が深くなって、水底に沈む玉でさえ鮮やかに見えるまで、月が明るく照らす夜であることだろう。

 

水底に沈む玉でさえ鮮やかに見えるほど月が照らし出すというのはもちろん誇張表現で、それほどまで月が冴え冴えとして夜のしじまの中を厳かに照らし出しているということである。

 

ここで着目すべきことは、この誇張表現である。

 

水底に沈む玉が鮮やかに見えるほどに月が輝いているというところである。

 

 

この水底に沈んでいる玉とは、あなたの魂である。

 

そして、あなたの魂が沈んでいる水底は、あなたの心である。

 

さらにあなたの心の奥底にある、あなたの魂を照らし出す月は、あなたの内なる魂と呼び合うもの、すなわち神である。

 

神から発する光が、あなたの心の奥底にある魂を、鮮やかに照らし出しているのである。

 

 

神の光ということで想起するのは、アッシジの聖フランチェスコが開いたフランチェスコ会が唱えている、神の照明説である。

 

それは、神は光であり、神から創造されたあまたのものは、その創造主たる神の光を宿しているというものである。

 

あまたのものは、内なる神によって、この世界に現されているのである。(アルケー)

 

それは、神が貴い存在であるように、神が創造したあらゆるものもまた、貴いということである。

 

神が創造した一切のものは、神の貴さを分かち持っているのである。

 

それは、貴いのは神だけであり、人は汚らわしい存在で、神によることでしか貴くはなれないとする、中世の教会に反対するものであり、後のルネサンスの人間中心主義を準備したと言われている。

 

 

ここで重要なことは、あなたの貴さは、神の貴さに由来し、神があなたの貴さを証しているということである。

 

神の貴さを語ることは、あなたの貴さを語ることであり、あなたの貴さを語ることは、神の貴さを語ることなのである。

 

あなたは、神の貴さを積極的に語ろうとしなければならない。

 

神の貴さを積極的に語ろうとすることで、あなたは、あなたの貴さを積極的に語ることになるからである。

 

 

 

あなたは、神に似ている。(タウタ)

 

それは、あなたの本質であり(ウーシア)、あなたは、神の貴さを受けて、この世界に現されているのである。(アルケー)

 

 

神に似る、あなたの貴さとはなんであろう。

 

それは第一に、あなたという存在は、ほかにいない ということである。

 

神が他に二つと存在しないように、あなたもまた、他に二つとして存在しないのである。

 

神が一なる存在であるように、あなたもまた、この世界にただ一つある存在なのである。(ヘン)

 

 

また、あなたは、他のなにものでもない存在である。

 

神が神以外のなにものでもないように、あなたもまた、あなた以外のなにものでもない存在なのである。(カト・ホ)

 

あなたが、他のだれかであることはできない。

 

あなたは、常に、あなた自身に対して唯一の責任を負っているのである。

 

 

また、あなたは、他と異なる存在である。

 

神が他と異なる存在であるように、あなたもまた、あなた以外のものと異なる存在なのである。(ポイオン)

 

他と異なる自分、それは固有のあなたである。

 

固有のあなたであるからこそ、あなたは、他者と繋がることができるのである。

 

互いが異なる存在であるからこそ、互いを必要とすることができるのである。

 

 

また、あなたは、他を自身に基づかせる存在である。

 

神があまたのものを自身に基づかせるように、あなたもまた、あまたのものを自身に基づかせているのである。(アイティオン)

 

あなたが思い感じる世界は、あなたの思い感じるものに引き寄せられた世界なのである。

 

あなたが思い感じないものを、あなたは思い感じることはないし、世界もまた存在しないのである。(バークリの唯心論を参照)

 

 

また、あなたは、他を成り立たせている存在である。

 

神があまたのものを成り立たせているように、あなたもまた、あまたのものを成り立たせているのである。

 

あなたがあまたのものに認めるのは、あまたのものがあなたによって成り立たされているものである。(ストイケイオン)

 

あなたが自身を生きる格率としているものである。

 

あなたから成り立たせられているように、世界は形作られているのである。(カントを参照)

 

 

また、あなたは、あなたのゆえに、より生きる存在である。

 

神が、神自身ゆえに、より生きるように、あなたもまた、自身のゆえに、より生きる存在なのである。(ポソン)

 

人間の欲望は、生きることの必然として所有されているのである。

 

仏教は欲望を抑えることを唱えるが、欲望こそ生きる上で必要なのである。(ニーチェを参照)

 

 

また、あなたは、自身が成る処のものを生きる存在である。

 

神が自身が成る処のものを生きるように、あなたもまた、自身が成る処のものを生きているのである。(ディナミス)

 

 

あなたは、あらゆるものを、あなた自身として生きている。

 

神があなたを自身に似せて創ったように、あなたもまた、自身に似せてあらゆるものを創造しているのである。(タウタ)

 

あなたが他と交わるのは、まさに他があなたと似ているものがあるからであり、あなたは自身と似ている部分を通して、他と交わることができるのである。

 

そして、他を理解することもまた、他を自分自身のように感じることから出てくる事柄である。

 

愛とは、他を自分自身のように思いやる心のことである。

 

 

また、あなたにとって、反対のものは存在しない。

 

神にとって自身に反対のものが存在しないように、あなたにとって、反対のものはないのである。(アンティケイメナ)

 

一見反対のものでも、それは、あなたが生きるためにあるのである。

 

イエスが「汝の敵を愛せよ」と言うのは、このことを表している。

 

敵であるものが、あなたの友のようになる。

 

なぜなら、それは、あなたがより自分であるものを生きることを促してくれる存在となるからである。

 

自分の味方だけが、あなたの友ではない。

 

あなたの敵となることで、あなたをより自分であるものに高めてくれる、そういう存在があることを知るべきである。

 

 

あなたにとって、あらゆるものは肯定されている。

 

あまたのものが神から肯定されているように、あらゆるものは、あなたによって肯定されているのである。(オン)

 

存在するあらゆるものは、存在するということにおいて肯定されているのであり、否定されるべき存在というものは存在しないのである。

 

どんなものも肯定されている。

 

それは、どんなものにも、存在の貴さというものがあるということである。

 

 

あなたは、あらゆるものを必要としている。

 

神からあなたが必要とされているように、あらゆるものは、あなたから必要とされているのである。(アナンカイオン)

 

あなたは、あらゆるものを通して、あなたであるものを生きているのである。

 

 

あなたは、この自分ではない自分を生きている。

 

神が神自身ではない、あなたを生きることで、神自身を生きるように、あなたもまた、この自分ではない他(他者や、未来や過去の自分)を生きることで、あなた自身を生きているのである。(プロテロン、ヒステロン)

 

そこから、あなたは常にこの自分ではないものを生きることから、自分というものはない、という言い方もできるであろう。

 

自分というものはない。あるのは、より自分であるものを生きる、あなたである。

 

 

あなたは、あらゆるものと関わることで、自分を生きている。

 

神があまたのものと関わることで自身を生きるように、あなたもまた、あらゆるものと関わることで、自分を生きているのである。(プロス・ティ)

 

どのようなものでも、あなたと無縁であるものはない。

 

あなたは、なにかしらあまたのものと関わりを持っているのである。

 

この今、世界の裏側で起こっていることと、あなたはまったく無関係でいることはできないのだ。

 

どんなことも、あなた自身と強く結びついているのである。

 

 

あなたは、自身が与える処のものを生きている。

 

神が与える処のものをあなたが生きるように、あなたもまた、あなた自身が与える処のものを生きているのである。(ディアテシス)

 

 

あなたは、あまたのものを、あなたにとってのものに生きている。

 

あまたのものが神にとってのものに生きられるように、あなたもまた、あまたのものをあなたにとってのものに生きているのである。(ぺラス)

 

 

あなたは、完全な存在である。

 

神が完全な存在であるように、あなたもまた、完全な存在なのである。(テレイオン)

 

それは、存在において、ということである。

 

どんな存在も、存在するということにおいて完全である。

 

それがゆえに、欠けているものを補おうとするのである。

 

 

あなたは、欠けているならば充ち足らされるであろう。

 

神がつねに充ち足らされているように、あなたもまた、充ち足らされるからである。(ステレーシス)

 

あなたが生きるのは、自身が充ち足らされるためなのである。

 

イエスがいう、「貧しいものは充ち足らされる」とは、この意味である。(新約聖書、「山上の垂訓」を参照)

 

 

欠けているものを充ち足らせようとするのは、完全な自分を保とうとする、目に見えない力である。

 

あなたは、つねに保たれている。

 

神がつねに変わらずにあるように、あなたもまた、つねに変わらぬように保たれているのである。(エケイン)

 

 

あなたは、あるものを作り変え、ないものを作る。

 

神がすでにあるものを自身にとってのものに変え、ないものを新たに創造するように、あなたもまた、すでにあるものを自身にとってのものに作り変え(ねつ造し)、ないものを新しく創造しているのである。(プセウドス)

 

あなたは、自身にとってのものにこの世界を創造しているのである。

 

 

あなたは、新たに自身を生きるためには、自身を毀(こわ)さなければならない。

 

神が自身を新たに顕すために、世界を毀すように、あなたは、あなた自身を新たに生きるためには、自分自身を毀さなくてはならない。(コロボン)

 

新たに生きるために、今毀れているあなたは美しい。

 

あなたが毀れ、傷ついているのは、新しく再生するためなのである。

 

 

あなたは、どのようにも、この世界を生きることができる。

 

神が自身の意志によって、この世界を創造したように、あなたも、自分の意志によって、この世界をどのようにも生きることができるのである。(シンベベーコス)

 

あなたが自らの意志で選んだことではなくとも、それを受け容れたということでは、やはり自らの意志で選んだということなのだ。

 

あなたが今生きているのは、あなたが自らの意志で選び択った結果なのである。

 

 

あなたはあらゆるものを受け容れる。

 

神があらゆるものを受け容れるように、あなたもまた、あらゆるものを受け容れているのである。(パトス)

 

神がどんなものをも許しているように、あまたもまた、どんなものを許すことができる。

 

だが、じっさい、神ではないあなたは、苦痛を受け容れることは容易なことではないであろう。

 

しかし、受忍の神を思い浮かべることで、あなたは、苦境を乗り越えてゆくことができるのである。(十字架上のイエスを参照のこと)

 

 

あなたは、あまたのものを、あなたであるものを通して生きる。

 

神が、神自身を通して、あなたを生きるように、あなたもまた、あなた自身を通して、あまたのものを生きているのである。(ディアテシス)

 

あまたのものを、それ自体として、あなたは生きることはできない。

 

生きるということは、自身のものを通して生きるということなのである。

 

 

そして、あなたは、あなた自身のものを通して、あなたを生きる。

 

神が、神自身のものを通して、神を生きるように、あなたもまた、あなた自身のものを通して、あなたを生きているのである。(へクシス)

 

 

 

神は、あなたの貴さのためにある。

 

もしそうでなかったら、あなたは、神を求めたりはしないであろう。

 

あなたが神を求めるのは、あなたの貴さを証してもらうためである。

 

あなたが、あなたの貴さを証してもらうために、神を求めたのである。

 

そうして神もまた、あなたのゆえに、神の貴さを生きているのである。

 

 

 

神はいるのか、いないのか。それは、じっさいどうでもよいことである。

 

しかし、神はいるということにしておかないと、あなたの魂は機能しないのである。

 

それが、あなたの自然、あるがままのあなた(ピュシス)であり、あなたであるがゆえのこと(ウーシア)である。

 

クレルヴォ―の聖ベルナルドゥスが、哲学を揶揄して、「学校で勉強し直せ」と言ったという。

 

それは、まさに神を前提として語らなければ、内なる魂を語ることはできないということを示したのである。

 

 

   *

 
ここまで「万葉集」を「実践的な形而上学」を通して解釈してきました。
 
はじめどうなるかと心配したところ、思いのほか、ある程度まで表現できたように思っています。
 
これからも、さまざまなところで、「実践的な形而上学」を応用したものを発表していこうと思いますので、どうかご期待ください。
 
ひとまず、この「上代形而上学歌集~万葉集の実践的な形而上学的解釈」(仮称)は、今回をもって終わりとさせていただきたいと思います。
 
なお、追加のものも出てきたら、それも加え、いずれ出版したいと考えているので、そのときまで、どうか楽しみにお待ちいただけたら幸いです。

 

   ***

 

「実践形而上学」

 

 アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。

 

 アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。

 

 思考について考えるからこそ、第一の学なのである。

 

 しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。

 

 第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。

 

 思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。

 

 これは飛躍である。

 

 後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。

 

 あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。

 

 プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。

 

 メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。

 

 「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。

 

 ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。

 

 それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。

 

 もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。

 

 思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。

 

 

 

 

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