第3番 安治(やすみ)しゝ 吾(わご)大君の 朝(あした)には取り撫で給ひ 夕(ゆふべ)にはいよし立たしゝ 御執(みとら)しの 梓(あずさ)の弓の 長弭(はず)の音すなり 朝狩に 今たゝすらし 夕狩に 今たゝすらし 御執しの 梓の弓の 長弭の音すなり(中皇命、間人老をして、舒明天皇に献上した歌)
この国をお治めなさっているわが大君が、朝には撫でさすり、夕には立たせて大事になさる、梓の木でつくった弓の長い弓弭を鳴らされるのが、朝の狩りに出かけてゆくときのもののようにも、夕の狩りに出かける折りのもののようにも聞こえることだ。
弓弭の音の響きは、あまねく世の隅々にまで治められる大君の御心のようである。
言葉で表されることには限りがある。
ことに心の内面について言葉で表すことは難しい。
自分自身でさえそうなのに、まして自分の思いを誰かに伝えようとするなら、いっそう困難である。
他者があなたについて理解するのは、他者があたかも自分自身のように受け入れている部分のみであろう。
共通の話題ならば、ある程度理解されよう。
しかし、その話題について、どのように受け入れられているかは、個々において異なる。
ウィトゲンシュタインの有名な命題をここで論じてみよう。
著書の「論理哲学論考」の有名な言葉である。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」
語ることができないもの、それは論理的にと言う意味でだが、論理的に語ることができないものは、語ることができない。
論理的ということを前提とするならば、論理的に語ることができないものを、論理的に語るということは不可能である。
当然といえば当然のことである。
しかし、私たちは、その当然のことを受け入れることができない。
あえてそうしてきたとしか言いようがない。
私たちは、語ることができないものを語ろうとしてきた。
とりわけ哲学をするものにおいて、そうだった。
ウィトゲンシュタインは、語り得ぬものを語ろうとすることの非合理性を批判するが、しかし、その批判は、果たして、非合理的なものに対する否定を意味するものであろうか。
むしろ、語り得ぬものがあることを明示することが、「論理哲学論考」のもう一つのテーマなのではなかろうか。
語り得ぬものが、語り得るものの裏にあって、じつはこれこそが語り得るものよりも大事だということを示しているのではなかろうか。
その場合、語り得ぬものとは、語ろうとして、語ることができぬもののことである。
彼が言いたいのは、語ることができないものを語っていることに合理的な意味が欠けているということであろう。
それは、非合理的な論に対する批判であって、非合理的な事柄に対する否定ではない。
語り得ぬものがあることを認めつつ、可能な限り語ることができるもののみを語ることに努めようというのである。
すなわち、語り得るものとは、語り得ないものを語る前提であり、語り得るものを語ることで、語り得ないものを語るのである。
語ることができるもの、それは、この歌においては、弓弭の音である。
しかし、この歌の主題は、弓弭の音ではない。
弓弭の音に込めたもの、すなわち語り得ぬものこそが、この歌の主題である。
歌は、語ることができるものを通して、語ることができないものを表すものなのだ。
哲学者もまた、語り得ないものを、語ることができるものをもって伝えることを旨としなければならない。
とかく哲学をする者は、言葉にとらわれ過ぎるきらいがある。
言葉にとらわれるあまり、読み手を拒ませるような、難解なものになり過ぎてしまっているのではないだろうか。
言葉によってしか伝えられないのは確かであるが、それによってかえって理解が困難なものになってしまってはいかがなものであろうか。
それと同時に、言葉には限りがあることを承知すべきであろう。
限りがある言葉を駆使して論じたところが、さらに言葉の限界を示すものとはならないであろうか。
言葉で表そうとするならば、伝える相手を意識して、誰にも分かる言葉で語ることに努めるべきである。
物事の本質が、一部の人しか理解できないものであるはずはない。
それが物事の本質であるならば、すべての人間が理解できるものでなくてはならない。
さらに、理解されるまで、多くの時間を要するものであってはならない。
それでは、理解する方法を学ぶことが先にあって、物事の本質そのものを純粋に理解することにはならない。
人が一生の中で割り当てられている時間はとても限られている。
不必要な時間のために、自分の限られた時間を割くことわけにはいかない。
それが本当に本質というならば、一瞬のうちに理解されるものでなければならない。
人の理解が困難なものであればあるほど、それは、語り得ない言葉の呪縛を受けているのである。
さらには、教義のような、本質とはかけ離れたものがついている場合もあるかもしれない。
私たちが語ろうとするのは、語り得ぬものについてであり、それは、語り得ることを尽くすことを通して、誰にも一瞬のうちに理解されるものなのである。
語り得ぬものは語られなくてはならない。
しかし、それは、語り得ぬもの(ことば)によってではなく、語り得るもの(ことば)によって語られなければならない。
語り得ぬものは、語り得ぬものだからという当然の帰結によって。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





