第1967番 香(かぐ)はしき 花橘(たちばな)を 玉に貫(ぬ)き 贈らむ妹(いも)は みつれてもあるか(作者不明)
私が、香しい橘の花を通した薬玉を贈ろうとする、私の愛する女性は、とても病みやつれていることだ。
古代においては、病んでいる体に、香しい花の香りを施すことが行われていたという。
確かに、花の爽やかな香りは、心安らぐものであろう。
気分がよければ、体にもよい影響があるような気がする。
病み衰えた恋人を慈しむ心を主題にしたものである
それは、欠けているならば充ち足らされるであろう、ということであり、満たされるべきものがあれば、それによって満たされなければならない、ということである。
欠けているものを充ち足らせ、満たされるべきものによって満たすことを成し遂げるのは、愛である。
人が互いに関わり合っていることの意味は、まさに愛の具現のためにあるのである。
そして、人が互いに求め合うのは、互いを充ち足らせる愛の完成なのだ。
愛によって、欠けているものは充ち足らされ、満たされるべきものによって満たされるのである。
だが、愛は、相手に対する気付きがなくてはならない。
相手がどんな状況にあるか、それに気付き知ることによって、あなたは、相手を思いやることができるのである。
そして、相手に対して、あなたができることを行う。
それが愛の行為である。
相手が欠けているもののうち、あなたによって満たすことができるものを、相手に与えるのだ。
また、あなたが満たすことができないものを知ることである。
しかし、あなたが実際満たすことができなくても、あなたの、相手に対する思いが、あなたができない部分を補ってくれる。
あなたによって満たされなくても、あなたの思い、相手に対する愛が、満たされない相手を癒すのである。
いや、じっさい、あなたができることには限りがある。
どんな人間をもってしても、相手を完全に充ち足らせることはできないことであるかもしれない。
それでも、あなたの、相手に対する思いが、相手を充ち足らされないものから救っているのである。
神の愛と言われるものは、そういう相手に対する思いが集約されたものなのではなかろうか。
自分の無力を痛感して初めて、自分自身を超えて、相手に対する無償の愛を生きることができるのだ。
あなたができない部分を、あなたを超えたものが補うというように。
だから、あなたは、自分の限りあることを日々考え抜く必要がある。
さらに、相手がどれほど充ち足らされないでいるかに思いを寄せなくてはならない。
相手に対する気付き、そして自分に対する気付きが、あなたを、あなたの生の中核たる、魂の愛へと導くのである。
***
「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





