第855番 松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ(大伴旅人)
瀬が光る松浦川の瀬に立って鮎を釣る、私が愛する女性の着ている裳裾が濡れていることだ。
見たままをそのまま写し取った、素朴な歌である。
だが、その素朴さとは、なにも足す必要がなく、ここに書かれていることで、じゅうぶん書き尽くされているということである。
私が愛する女性は、自分が着ている裳の裾が濡れてもかまわないで、私のために川の瀬に立ち、鮎が釣れるのを覗っているのである。
そんな、相手が自分のために一生懸命になっている姿に、私の心は打たれているのだ。
ここから、さらに、この歌の形而上学的な解釈を試みたい。
それは、どうして私の心は打たれるのであろうかということだ。
第一に、そこにはあるがままの人間の美しさが描写されているからである。
あるがままであることがすでに美しいものに対して、なにも付け加えるものはないのである。
あるがままですでに美しいのは、その存在が肯定されたものであるからである。
あるがままのものに対する肯定ほど、強力なものはない。
どんな飾りも、このあるがままのものに対する肯定に勝てることはできない。
では、なぜあるがままのものは、そんなに強力なのであろうか。
それが第二のことである。
第二には、それはあるべき自分であるということである。
あるがままのものは、それがあるべき自分であるということにより強力なのである。
あるべき自分とは、自分が日々より生きつつある自分であり、求められるべき自分である。
自分が生きる目的、自分の意味である。
自分が生きる目的、自分の意味とは、この自分ではない処にあると思いがちである。
しかし、他のなにものでもない、この自分であるものこそ、自分が生きる目的、自分の意味である。
そのことを感じる場面こそ、あるがままの自分においてなのである。
自分のために裳裾を濡らして鮎を釣る女性は、自分が求めるべき自分であろう。
求められる自分、それが第三のものである。
すなわち第三は、それが、誰かのために自身を用いることを厭わない精神を表しているということである。
女性が、自分のために自分の着ている裳裾を濡らすことを厭わないでくれることに,、ただ感動する。
そういう女性の姿によって、自分もまた、誰かのために自身を用いることを厭わない自分でありたいと願う。
誰かのために自身を用いる、そのあるがままの姿こそ、貴く、そして美しいのだ。
川の清らかな流れもまた、女性の貴い美しさを表しているかのようである。
自分もまた、女性が裳裾を濡らした清らかな川の瀬に浸かってみたいものだ。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





