第1317番 海(わた)の底 沈透(しづ)く白玉 風吹きて 海は荒るとも 取らずば止まじ(作者不明)
底まで透き徹った海の底に沈んでいる、白い玉が見える。風が強く吹き、海が荒れたからといって、その白玉を取らずにおくことができようか。
白玉は美しい玉、それは、自分が思う女性を例えたものであることは容易に想像されるであろう。
たとえどんなに困難でも、けっして諦めない。かならずや女性を自分のものにするのだという決意の歌として詠むことができる。
ところで、美は女性を表す言葉であると言えるであろう。
美であるものは、自分が思い抱く女性に結び付いているのである。
それはそれとして、はたして美とはなんであろう。
それは第一に、自分をひきつけ、自分をそこから引き離さないものであると定義できるかもしれない。
美が持つ力は、なによりも拒むことができぬものである。
それは、どんなにそこから離れようとしても、そこから離れることができない麻薬のようなものである。
第二には、生きるということに繋がっている。
美は、人に生きる力を与えるのである。
恋をなさせるのは、美によってであることにほかならない。
相手への美しいという思いが端緒になって、恋の情熱に向かわせるのである。
恋に限らず、あらゆる生への衝動は、美が根底にある。
そして、美は、人に感動を与えるという点で、喜びの源である。
それがゆえ、美は、私たちの生きる力に直結しているのである。
第三は、自分が生きる意味を表すものであり、あるべき自分が美であるということである。
自分が生きる意味とは、まさにそれが自分にとって美であるということなのだ。
また逆に、あるべき自分から出たものは美であるといえる。
あるべき自分は、自分を活気づけ、自分を励ます。
あるべき自分が、自分をより自分であるものに導くのである。
そして、あまたの美なるものが、あるべき自分を生きるあなたを支える。
美に惹かれるのは、それが自分を支えているものだからなのだ。
それがゆえ、諦めることはできない。
全力でもって求めなくてはならないのである。
もっとも、美がすべて自分をあるべき自分に導くものとは限らない。
むしろそれを妨げることもあることに留意すべきであろう。
自分を堕落させるのもまた、美の持つ力なのだ。
だから、なにが自分にとって本当に美しいかを、自分で正しく判断しなくてはならない。
自分にとって本当に美しいものは、あなたをあるべき自分へと力づけ、励まし、導くのである。
正しい判断をしなかった場合、美に導かれて、あるべき自分ではないものを生きることになる。
あるべき自分とそうではない自分、いずれもあなたを突き動かすのは、美の力だ。
そもそも美は、正しくも悪しくもないのだ。
そして、どんな場合でも、美はあなたに向かって、つねに正しいというであろう。
あなたを支え、励まし、力づけるのに、それが正しいかどうかは関係ない。
ただ、あなたが存在するということ、生きるということにおいて、あなたがつねに正しいということなのだ。
存在するとは、この世界に肯定されているということである。
どのような存在も、この世界に在るということにおいて、肯定されているのである。
それは、命の原理的なものである。
そして、美は、この命の原理的なものに基づいている。
あなたがあるべき自分を生きようが、そうではない自分を生きようが、つねに正しいと語り掛けるのが美であり、それが、あなたの生なのである。
あるべき自分と合致した美であるものによってのみ、あなたは、あるべき自分と一致した美を生きることができる。
そして、そうではない自分と合致した美であるものによって、あるべき自分ではない自分と一致した美を生きることになる。
美そのものからは、それが、あるべき自分であるものに合致するものか、そうではないものかは示されない。
あなたが生きることはつねに正しいが、そのことと、あなたが生きるべき自分であるというとは別のことなのだ。
だからこのようにも考えることができるだろう。
たとえあなたが今、あるべき自分を生きていなくても失望することはまったくなく、あなたは、命とむすびついた美によって、いつでも肯定され、励まされ、あるべき自分を生きることができるのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





