第1301番 海神(わたつみ)の 手に纏持(まきも)たる 玉ゆゑに 磯の浦曲(うらわ)に 潜(かづ)きするかも(柿本人麻呂)
海の神が手に纏う玉を得んがため、磯の入り江に潜っていることだろう。
玉とは、自分が愛する女性を例えたもので、海の神は自分が愛する女性を愛しんでいる両親であると解される。
私は、自分が愛する女性のゆえに、女性がいる処に苦労もいっさいいとわずに出かけてゆくのである。
女性を守っているのが海の神ということならば、かなり高貴の身分で、敷居が高い家であることが推察されよう。
海の神というからには、海を治める豪族だろうか。
女性への思いの強さから、どんなにつらいことが予想されても、その女性のために行動しようという決意が表れているであろう。
それはいってみれば、自分の運命である。
なるほど海の神は手に纏き持つ玉のように、自分の娘を所有しているが、私は女性を自身の運命として所有しているのである。
自身が所有するこの運命のゆえに、私は、どんな艱難辛苦にも耐えてゆくであろう。
それは、あるべき自分であり、自分がより自分であるものを生きることなのである。
自分が生きるとは、このように、自分の内にあって、自分があるべきものとして所有するものを生きることなのである。
あるべき自分、それは、どこかよそにあったり、またこれから出会うものなのではなく、自分の内にあるものなのだ。
ただ最初からそれに気づいているとは限らない。
長い時間をかけて、自分の内に、あるべき自分があることに気付くこともあるであろう。
自分の内にこそ、あるべき自分がある、そのことに気付くことで、あなたは、自分がこの世界に現れる処のものを生きるのである。
あるべき自分がまさにこの今の自分であるとき、あなたは、どんな犠牲もいとわないのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





