第1091番 徹(とお)るべく 雨はな降りそ 我妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)の衣 我(われ)下に著(け)り(作者不明)
私の着ている衣の下まで濡れるほど雨が激しく降ってくれるな。私の愛する女性が形見にくれた着物を衣の下に着けているので。
私が愛する女性がくれた着物まで濡れるのを悲しんでいるのであろうか。
いや、むしろ喜んでいるというべきなのではないか。
自分の衣と、女性が形見にくれた着物が、ともに雨に濡れることの方が、よほど自分と相手とが一体感を増すのではなかろうか。
それとも、愛する女性がくれた着物を相手そのものとして大切に感じているのであろうか。
それもまた一興かもしれない。
相手がくれた着物は、それ自体たんに着物であるだけではなく、相手の分身なのだから。
ところで、この相手の分身である、形見というものについて考えたい。
形見自体はたんに物に過ぎないが、相手が身に付けていたものということで、そこに相手の魂が宿ると、いにしえの人は考えた。
いや、その感覚は、じつは現代を生きるわれわれにも残っている。
それは、とても感覚的に信じられていることである。
相手が身に付けていたものならばなおさらのこと、そのものを相手そのものと感じるであろう。
相手そのものというのは誇張で、相手の魂というのがふさわしい。
魂というのはとても感覚的に受け入れられやすい概念である。
古代の人は、ある人そのものを離れてその人を感じ続けることができることを不思議に感じた。
それを命そのものから遊離する存在、魂と呼んだのである。
じっさいに、それが実在するかどうかは問題ではなく、感覚的に感じることができる存在なのである。
愛する人が身に付けていた着物は、愛する人の魂が宿ったものなのであり、その着物を通して、その着物をくれた相手を感じ続けることができるのである。
そのものから離れて、他の中で生きる命、それが魂であり、それは私たちの身の回りの至るところに現れているのである。
誰かに送るものには送ったものの魂が宿っているのであり、あらゆる造作物はそれを作ったものの魂が宿っているのである。
そして、魂を感じることによって、人は他と繋がっているのである。
このような魂は、霊的な存在というよりは、人と人とを繋ぐ絆なのである。
魂を感ずることによって、あなたは、人の絆を感じることができるのである。
あなたが誰かを愛するのも、それは、あなたが魂であるものを通して、相手と繋がれているからなのだ。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





