第710番 み空行く 月の光に ただ一目 相見し人の 夢にし見ゆる(安都扉(あとのとびら)の処女(おとめ))
空を行く月の光に照らされて、ただ一度だけ会った人が、夢にも見えることだ。
ただ一度だけ相見た人のことが忘れられない。夢でも会うほどに。
これほどの相手とは、いったいどういう存在であろう。
たった一度の出会いが、自分の一生を決定することがある。
もしその人と出会わなければ、今の自分はなかったというほどの。
これまでたくさんの人と出会ってきて、どうしてその人なのであろうか。
しかし、その人でなければならなかった。
その人によって、自分は本当に変われたのである。
その人によって、自分は、真に自分であるものを生き始めたのだ。それは紛れもない事実である。
出会いとは不思議である。
理屈で考えても分からない世界といっていい。
どうして自分なのか。どうしてその相手なのかは。
初期キリスト教におけるパウロもまたそうであった。
イエスの信徒に対する迫害者であったサウロは、あるときイエスの霊に触れて突然盲目になると、自分が迫害していた人たちの指導者パウロとなった。
ただ記録に残されていないだけで、このような例は無数にあるかもしれない。
それは、化学反応に似ている。
おそらくは、自分では気づいていないだけで、自分があるものと出会うことで起こる変化が、自分の中で準備されていたのだ。
まったく自分が理解できないところで、無意識なうちに、自分を変化させる存在に触れるとき、突如予想を超えた変化が自分に起こるのである。
中世の神学者マイスター・エックハルトは、これを存在の火花と呼んだ。
存在と存在とが、決定的な因果によって交わると、そこに化学変化が起こり、互いの存在どうしを一瞬のうちに新しい存在どうしに変えるのである。(互いの存在どうしというところがミソだ。新しい自分にふさわしいものとして、相手もまた新しく創造されているからである)
一瞬!
変化は徐々にではなく、一瞬のうちに起こるのである。
考えてもいないうちから、変わる。
思考に先立つのである。
一瞬のうちに、古い自分が、新しい自分に置き換わる。
こんなことが自分に起きることを、あなたは不思議に思うであろう。
しかし、それは現実に起こるのだ。
それはまた、自分を新しい自分に創造した存在とともにある自分である。
そして、自分を一瞬のうちに変えた存在はどこにも行かない。
新しい自分をつねに支えてくれているのである。
あなたを一瞬のうちに変えた存在は、あなたから去らずに、いつも、新しく生まれ変わったあなたのそばに寄り添っているのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





