第430番 やくもさす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の おきになづさふ(柿本人麻呂)
出雲の処女の黒髪が、吉野川の川の奥で浸かって靡いている。
川で溺れて死んだ出雲の処女を、吉野で火葬した際に詠んだ歌だという。
歌の前書きがなければ、出雲と吉野とは随分離れているわけで、出雲の処女が吉野川の精霊になったかのようにも受け取れる。
また、出雲の処女が死んだ状況を歌い込むというのも、とても意味深な感じがする。
まるで、吉野川に、今も出雲の処女が浸かっているかのようだ。
さらに、吉野の川で、どうして出雲の処女が死んだのであろう、というのが気にかかる。
ただ処女が死んだとだけ伝えれるだけでは収まらず、あえて出雲の処女が死んだのだということを言いたいところに、この歌の作者の意図があるという気がしてならない。
出雲と吉野、この二つの場を置くことで、私たちの「時間」というものを表しているのだと、私は考える。
すでに生きた自分、今生きつつある自分、そしていまだ生きていない自分。
現在の自分というのは、つねに過ぎ去る時間の中の自分であり、それを今として生きることはできない。
過去の自分は、すでに生きた自分であり、もう生きることはできない。
未来の自分は、いまだ生きていない自分である。
屁理屈をいえば、私たちは、時間を生きることはできないといえよう。
時間は、私たちの生に付随しつつ、たえず私たちを突き放し続けているのである。
あえていえば、自分とは、この自分ではないものを生きる存在である。
一方現実にこだわれば、この自分であるものに囚われることになるであろう。
だが、この自分であるものとは、この自分ではないものへのプロセスに過ぎないのである。
この自分であるものに囚われる必要はないのだ。
この自分であるものは、この自分ではないものへの途中の姿として受け取るべきなのである。
ところで、この歌は、またとてもシュール(超現実)な感じを、私は持つ。
出雲の処女の黒髪が、吉野川の奥で浸かって靡いている情景はリアルさだけではなく、なかなかシュールでさえある。
ここに、この歌の真の魅力があると言えるのではあるまいか。
自分の本質、真実であるものが、現実の自分を超えることができるということ、それがシュールレアリスムの意義である。
現実の自分が自分の本質、真実ではないのである。
自分とは、現実を超える存在なのである。そして、自分の本質、真実に根差す存在なのである。
現実とは、見方によってどのようにも理解される材料であって、生きるのは材料によってではなく、自分が生きる意味、目的によって生きるのである。
現実の自分に囚われる必要はまったくないのだ。
現実の自分は、自分がより生きるための、あるべき自分を求めるための材料に過ぎないのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





