第1766番 吾妹子(わぎもこ)は 釧(くしろ)にあらなむ 左手の 吾が奥の手に 纏(ま)きていなましを(布留田向)
私の愛する女性が腕輪であってくれたら、私の左手の二の腕に纏わせて、いつまでも持っていよう。
第729番 玉ならば 手に纏かむを うつそみの世の人なれば 手にまき難し と同じ意趣の歌であるが、こちらが女性の側から自身を玉に掛けて歌ったものに対して、男性の側から相手を腕輪に掛けて歌ったものである。
この二つの歌で男性の歌にあるのが、左手という言葉と、吾が奥の手という言葉だ。女性の歌が「うつそみの世の人なれば」と断らない、潔さがある。
あるいは、ここに、女性ならではの(現実的、感覚的)、また、男性ならではの(理想的、精神的)、と、それぞれの特徴というものがあるかもしれない。
ところで、左手はなにを意味しているであろうか。
左手の左は、心臓のある方であり、その心臓に近い方の腕の奥に纏わせるのが腕輪である。
すなわち、自分の命に近いところに、自分が愛する女性を置こうという、強い意志を表しているのである。
さらに言うならば、相手が自分の一部を介して、自分の中心に据えられるということだ。
自分をこの世界に現し、自分を基づかせるものとして、相手を自分の中心に据えるのである。
自分は、この存在によって支えられ、けっして動ずることがない。
あなたが、相手が大事なのは、相手があなたを強固な存在にしてくれる存在だからである。
あなたが大事な人と共にあるとき、満ち足らされた自分を生きているのである。
また、相手は、あなたをあるべき自分へと導いてくれるであろう。
あなたが相手を通して生きるとき、それは、より自分であるものを生きているのである。
また、必要とあれば、あなたをこの世界に偽ることも造作ないことである。
そして、相手があなたに示すのは、欠けるところのない、完全なる自分の姿なのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





