中世のドイツに、近代のドイツ観念論に繋がる、精神探究の伝統の種を蒔いたのが、マイスター・エックハルトであると考えます。
彼はじつに、ただ中世の神学者であるということに留まらず、現代の哲学にも影響を与え続けているのです。
彼は異端者を改宗させることを大きな目的に設立されたドミニコ会の所属していました。
彼が同じ異端者改宗の任務において特異なことは、異端者だけではなく、自分たち自身にも信仰の意味を突きつけたことです。
彼は、自分たちの信仰が信仰そのものを汚している、また貶めているという重大な指摘したのです。
それは、当時の教会において衝撃的な内容でした。そのため、彼は異端の嫌疑をかけられることになったのです。
彼は、自分自身から離れなくてはならない。そして、自分をただ神が住まうための場所にしなくてはならない、と人々に語りかけたのです。
つまり、信仰とは自分を無にし、神と一つになることなのです。
一方、信仰を妨げている、わたしたちが信仰として信じているものは、じつは信仰とは反対の、神を自分自身に従わせようとする行為なのです。
これだけ信じているのだから、その信仰に応えなくてはならないという、転倒した心理が、自分たちの信仰と称していたものには隠れているのです。
真に信仰するために、信仰と信じているものを疑う。これは、たんに宗教を超えて哲学にまで広がってゆくものです。
このことを踏まえて、わたしは、あなたがより自分自身を生きるために、自分そのものから離れなくてはならないということを理解します。
すなわち、
あなたは、自分自身からあらかじめ離れれば離れるほど、より強き自分であるものに息づかせられます。
あなたのからだであるものを、あなたの内なる血であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる血であるものから、よりあなたであるものに息づかせられるのです。
あなたは、自分自身から高く離れれば離れるほど、より聡き自分であるものに導かれ、育まれます。
あなたの耳であるものを、あなたの内なる胸であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる胸であるものから、よりあなたであるものに導かれ、育まれるのです。
あなたは、自分自身から限りなく離れれば離れるほど、より自由な自分であるものに在らされ、創造されます。
あなたの脚(足)であるものを、あなたの内なる腕(手)であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる腕(手)であるものから、よりあなたであるものに在らされ、創造されるのです。
あなたは、自分自身から深く離れれば離れるほど、より豊かき自分であるものに満ち足らされます。
あなたの肩(器)であるものを、あなたの内なる内腑(中身)であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる内腑(中身)であるものから、よりあなたであるものに満ち足らされるのです。
あなたは、自分自身から堅く離れれば離れるほど、より貴き自分であるものに守られます。
あなたの背(無防備な自分)であるものを、あなたの内なる皮膚(防備)であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる皮膚であるものから、よりあなたであるものに守られるのです。
あなたは、自分自身から一に離れれば離れるほど、より重き自分であるものに支え持たれます。
あなたの肉身(自分を成しているもの)であるものを、あなたの内なる骨(支柱)であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる骨であるものから、よりあなたであるものに支え持たれるのです。
あなたは、自分自身からあまねく離れれば離れるほど、より広き自分であるものに味わわれます。
あなたの目(知、見識)であるものを、あなたの内なる舌(評価)であるものから解き放つことで、あなたは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの外なる舌であるものから、よりあなたであるものに味わわれるのです。
マイスター・エックハルトの思想は、日本人の感覚にも、とても馴染みやすいものがあります。
心をむなしくすることで、神(仏)と一になることを説いているところは、禅を思わせます。
ただ、禅と異なるのは、それがいっさいは無常であるとする、無の思想である仏教とは反対に、あくまで有の思想であるという点でしょう。
心において無になることで、魂において有となる思想なのです。
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