歴史についての哲学~名もなき人々の歴史 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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 本日二度目の更新です。



 民俗学について、もう一つ重要な点は、歴史がともすると有名人の歴史であることへの批判として、名もなき民衆の歴史を創造しようという意図が込められていることです。



 確かに歴史は力ある人間によって大きく左右されてきました。



 その最たるものは、国家の為政者や地方の有力者たちによる戦争です。



 しかし、歴史は、必ずしもそうした力ある人間だけのものではありません。



 そうした力ある人たちも、その他大多数の名もなき人たちがあったればこそ、力を発揮できたのです。



 民俗学は、力ある人も、その他大多数の力ない人たちも、一つにひっくるめた歴史を創造しようとしたのでした。


 

 そのシンボリックなものが、常民という言葉だったのです。



 しかし、大多数の人間は、力ある人を指標にしてきました。



 あのような人間になろう。あの人間がしたようなことを自分もしよう。



 それは、個人崇拝です。



 個人崇拝は、あなたを、あなたと対等なものどうしの絆から引き離し、あなたを超えてあなたを生きるものとして、あなたの崇拝する人間によって、自分が生きられることをうながすでしょう。



 いうなれば、個人崇拝とは、個人を神のようにする行為です。



 ただ、神とは、もともと個人崇拝から派生したものだという見方をわたしは持っています。



 従来の歴史とは、この個人崇拝をうながすものなのです。



 それに対して、民俗学が意図した無名の個人たちの歴史では、個人崇拝が入ってくる余地はありません。



 そこにあるのは、互いが思いやりあう協同社会です。



 そして、歴史が常に発展であり、過去のものは間違っていて、新しいものは常に正しいとする、歴史進化論に対して、民俗学は反対しました。



 歴史は進化しない。



 現在の中に過去のものもあれば、新しいものもある。



 間違っているものもあれば、正しいものもある。



 なにが正しく、なにが間違っているというのは、現在の見方による判断でしかないのです。



 現在の見方で正しいとしたこと、間違っているとしたことが、数年後にはまったく反対のことになることもありうるのです。



 だから、あなたは、自分が正しいと思うことは正しい、間違っていると思うことは間違っている、とぶれない姿勢を保つこと。



 あわせて、自分の判断が、必ずしも正しいとは限らないということを持つことが一番大事なのです。



 そして、あなたは、一人の人間を崇拝するのではなく、いつでも自分と対等なものどうしのもとに帰ってゆくのです。