普通であることについての哲学~民俗学 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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 前回、民俗学のサークルに入っていたことを書きましたので、ついでに、民俗学について述べたいと思います。



 民俗学は正式名称を「日本民俗学」といい、地域で続けられている(または、過去に行われていた)祭事や仕来り、俗信、言い伝え、昔話といった民間伝承を通して、日本人とはなにかを考える学問です。



 具体的に、ある特定の地域にじっさいに赴き、自分の足で一軒一軒家を訪ねて、お年寄りから聞き取り調査をし、その結果から地域の特殊性と、日本人全体の普遍性について考察していきます。



 個々の事例から探ってゆく手法は「帰納法」的といってよいでしょう。



 最後にまとめあげるときには、先人が残した経験をもとに考察を組み立ててゆくことになります。



 民俗学という学問にたずさわった経験は、今の自分にとても大きなものを残してくれました。



 それは、自分の考えにとらわれず、相手の考えをまず受け止め、それを理解することから始めるという態度です。



 先に相手があって、その後に自分がある。このスタンスがとても大事です。



 さて、この民俗学にはもう一つ、哲学的な意味合いが含まれています。



 それは、普通とはなにか、ということです。



 わたしたちが普通と考えていること。



 それは、じつは普通ではありません。



 普通とすることで、わたしたちが安んじていることです。



 先人の苦労の積み重ねとその経験から、これがもっとも妥当と考えられているものが普通というものなのです。



 考えてみれば、わたしたちは、個人の自由とか権利とか尊重ということをいうけれど、これは大昔は普通なんていうものではなかった。



 数世紀前まで、個人ということを口にしたら、狂気の沙汰ということになるでしょう。



 つまり、わたしたちが普通のこととしてとらえているものは、それが普通となるまでに多くの経緯を経てきたものなのです。



 さて、民俗学の現地調査をする中で、わたしは、この問いをずっとし続けていました。「普通とはなにか」。



 日本民俗学を立ち上げた柳田國男は、普通を共有する民のことを「常民」と名づけました。



 「常民」は、ほぼ日本人ということと同じ意味合いです。



 英語で訳すと、コモンピーピルです。



 民俗学は、哲学的には、この常民を探究する学問であり、普通とされていることがどのように作り上げられてきたかを明らかにするものなのです。




 21世紀に入ってすでに13年。民俗学がかつてのような現地調査をすることはもう不可能だと言われて久しくなっています。



 「民俗学」は過去の学問だ、と。



 しかし、コモンピーピルは厳然として、存在しています。それは、わたしたち自身です。



 常民の学問として、民俗学は存在しつづけるのです。



 わたしたちが当たり前のように思っていることこそ、民俗学の対象です。



 地域の違いを取り上げて面白がるTV番組がありますが、それをもっと視野を広げて日本人とはなにかということを考えるとき、そこに新たな「民俗学」の輪郭が浮かび上がってくるでしょう。



 また、さまざまな都市伝説というものがあります。これも、広い意味で「民俗学」の対象です。



 ただ、民俗学は、日本人ということにとどまらず、日本人<アジア人<世界人という視野で、そもそも人類とはなにか、つまり「人類学」に向かうべきものだと思います。



 今日のわたしの哲学に導いてくれたものの一つは、はっきり言って、この「民俗学」だったことは否定しがたいことです。