ゴールデンウィークいかがお過ごしでしたか。
こちらは、まったく関係なく、昨日まで仕事をしっぱなしでした。
仕事があることを感謝して、仕事に没頭していました。
さて、この間に感じたことを、自分の実体験に基づいて、書いてみようと思います。
まず、自分の性格を述べると、このようなことになります。
元来、自分は、人見知りが激しくて、内に閉じこもりがちな人間で、人からなにかされても「ありがとう」をきちんと言うことができない、典型的内向型人間です。
人とかかわることよりも、自分の時間を大切にしたい。また、誰かとなにかすることが苦手で、自分ひとりでこつこつとやってゆく職人タイプといったらいいでしょうか。
つまり互いに対等なものどうしの絆からはみ出て、自分の中にある自分を超えて自分を生きるものにしたがっていた生き方を、これまでしてきたと言えます。
自分ひとりですることは、まわりの人間との連携をときにぎくしゃくしたものにしがちです。
自分の独断がまわりに迷惑をかけたこともあります。
振り返ると、この、自分自身に忠実になろうとするあまり、じつに多くの失敗をしてきたと思います。
ただ、そうした失敗が、今ある自分へと向かわせたということは言えます。
失敗は必ずしも悪いことではなく、今の自分を修正しなくてはならない、ということなのです。
そうして、いつか他者との連携によって、自分はより生きることができるのだ、と考えるようになりました。
それは、一人一人は独立した存在だが、その一人一人が自分自身を実現させるために、他者と一つになるという、ライプニッツのモナドの思想を連想させるものです。
自分自身をより生きるためには、やはり他者との連携がなくてはならない。
これが、自分の哲学の基盤になっていることは間違いありません。
さて、前置きはこのくらいにしておいて、大学時代、民俗学のサークルに入っていました。
具体的に、とある地方の民俗資料といわれるものを、実際に現地に行って住民に聞き取り調査するものです。
最初は二人一組で行動するのですが、途中から一人で村々を回ります。
もともと人見知りが激しく、どう初対面の人と会って話しを聞くか、とても不安でした。
民家の前に立ち、ぎこちなく要件を言うと、快く自宅の中に入れ、こちらが聞くことに、とても親切に話してくれました。
どうして、こう見ず知らずの人間に親切に応対してくれるかと一人思っていると、相手は、「こんなところに住んでいる老人に会って、話を聞きたいという人は、めったにないから、嬉しいんだ」と言います。
お年寄りはいつも話し相手を求めているのだな、と感じました。
そのあと、食事をご馳走させていただきました。
わたしがもっと弁の立つ人間だったら、こんなふうに応対してくれなかったのではないか、と思うことがあります。
わたしが他人とうまく接することができない、ぎこちない人間だからこそ、あんなふうに、やさしくしてもらえたのではないか。
他の実例を話しましょう。
それはつい昨日のことです。
多くの人がゴールデンウィークを愉しまれている中、仕事に打ち込んでいると、わたしのことを気の毒に思われたのか、まったく見ず知らずの方から親切のお声をいただきました。
そのとき、ごく自然に、この言葉が出たのです。
「ありがとうございます」。
こんなにすがすがしく言えたことはありません。
「ありがとうございます」。
ああ、なんていい言葉だな、と思いました。
いままで、この言葉がうまくいえなかった自分がいました。
しかし、いま、この言葉の持つ意味がわかります。
それは、誰も自分ひとりで生きているわけではない。
互いに対等なものどうしの絆の中で、生かされているのだ、ということです。
他者から生かされていることに、わたしは、素直に感謝したのです。
頭では分かっているつもりでも、他者から生かされていることに、本当にはわかっていなかったのだと思いました。
しかし、いま、自分の身を苦行の中に置くことで、それがよく分かるようになりました。
「ありがとう」。
もし、いま、感謝の意味を知りたかったら、ある意味、自分を厳しい状況の中に置いてみるのもいいかもしれません。
自分の殻に逃げ込んでいた甘えた自分をうち捨て、他者を全面的に受け入れるのです。
そうすると、分かります。
他者に感謝を言いたくなる気持ちが。
今日、このブログを読んでくれたあなたに、あらためて、この言葉を送ります。
「ありがとう」。