「プロメテウス」はいよいよ最終回を迎えます。
ここでは、かなり貴方の核心に踏み込んでいきます。
そして、悪とはなにかを明らかにすることになります。
もしかしたら、気分が悪くなることがあるかもしれません。
けれど、わたしを信じてくれるなら、大丈夫です。
その後には、ミラクルなことが貴方に起こります。
最初は、20世紀の哲学者ジャック・デリダを取り上げます。
彼の思想で有名なのが、「差延」という言葉です。
言語とは差異以外のなにものでもないという、言語学者ソシュールの見解を受けて、デリダが作り出した言葉で、いっさいのものは、常にその存在に先駆けるものとのズレ、時間的な遅れがそのものを存在たらしめている、ということです。
わたしと貴方との違いが、まさにわたしという存在を作り、貴方という存在を作っている。
そして、互いの違いこそが、互いをよりよく生き合う動機になっているのです。
違いが貴方を創り、わたしを創る。
違いは貴方自身の中にも、わたしの中にも、ある。
自分の中にある違いは、貴方をよりよく生きさせるものです。
一秒前の貴方は、もはや今の貴方ではない。
言葉もまた、昨日の言葉は今日の言葉ではなくなっている。
時間の流れの中で、言葉はさまざまなものから影響を受け、意味を少しずつ、ずらされているのです。
そうすると、困ったことになる。
言葉を共有することができるからこそ、わたしと貴方とは一緒に生きることができるのです。
言葉が刻々と変わってゆくようでは、言葉を共有することはできなくなる。
わたしと貴方とはともに生きていくことができない。
共有できない言葉は、言葉自身の意義を喪失するしかありません。
だから、ある程度、言葉自身の意味が変わらないように、絶えず定義づけを続けなくてはならないのです。
考えてみてください。
同じことを思っているはずだのに、なぜか違う意味になっている、ということを感じたことはありませんか。
それは、互いが生きている世界から、言葉が影響をされて、最初、共有されていた意味からズラせてきてしまったのです。
だから、言葉の持つ意味が変わらないように、わたしと貴方とは折りあるごとに確認しなければならないのです。
つまり、言葉を信用してはいけない。
折りあるごとに、その意味がどういうことかを確認しなければならない、ということです。
そうでなければ、誰も言葉を共有することはできないのです。
共有できない言葉は、言葉以前の個別の感情以外のなにものでもなくなります。
しかし、この確認行為こそが、確認し合っているものと、そうではないものとを分かつことになる。
言葉を共有できているものと、共有できないものとを生み出すことになるのです。
最近、話題にされることが多くなった、ストーカーという行為は、共有できる言葉を必死に取り戻そうとすることから起こっていることなのではないか、とわたしは推察しています。
昔だったなら、それは情熱という言葉で、むしろ賞賛の対象だったかもしれません。
愚かな行為ではあるけれど、人情の上で理解されたのです。
むろん、情熱は、現代においても賞賛される対象です。
情熱とストーカーとは、それが共有できるものかどうかで、きっぱりと分かたれます。
共有できるとは、理解できる、ということです。迷惑行為は理解されません。
ただ、これも理解されなければ情熱ではないのか、また、迷惑行為はすべて悪いかというと、それは違います。
迷惑というのは主観的なもので、どの立場に立つかで異なるからです。
あえて言うなら、法律がそれを決めている、ということです。
法律が、わたしたちの価値観を決めているところがあります。
現代で、赤穂浪士がしたようなことをしたらどうでしょうか。
なかには勘違いしてやろうとする人がいる。
そういう人たちが、テロリストになるのかもしれない。
わたしたちの情熱はこうして、意味をずらされてきているのです。
いつのまにか、わたしたちは、自分の感情というものを法律に支配されるようになっているのです。
もともとわたしたちの感情が法律を作っているのに、です。
その感情によって作られた法律が新たに、わたしたちの感情を支配するようになるのです。
今正しいことが、少し前では誤っていることだったりするのです。
貴方の喜びは、少し前には悲しみとなり、貴方の悲しみは、少し前には喜びだったかもしれません。
わたしたちの思考は、はたして思考たりうるのか、ということを考えさせてくれます。
ここで、さらに踏み込みたいことがあります。
それは、悪についてです。
悪とはなにか。
どうして悪はあるのか。
とても衝撃的な内容なので、どうか覚悟して読み進まれてください。
結論から言います。
悪とは、壊れたコミュニケーションのことである。
さきに、ストーカーについて、この悪の問題に触れました。
ここに悪の本質が明らかになっています。
言葉が共有できないことが犯罪の根っこになっているということです。
誰かを傷つけることは、傷つける相手とコミュニケーションをとりたいが、言葉を共有できないかわりに、言葉の代わりとして、否が応でもコミュニケーションをとらざるを得ない行為なのではないか。
セックスとは、本来言葉を共有し合う男女が互いのすべて(心とからだ)を使って行うコミュニケーションだと思います。
とすると、言葉を共有しないで行うセックスはなにか、というと、レイプです。
レイプとは、共有できる言葉を求めて、心とからだとのコミュニケーションであるセックスを求める行為だということに気がつきます。
つまり、セックスが目的なのではなく、それは手段であって、本当は、共有できる言葉を求めているのです。
そうした思いを共有するものたちが集まってするのが、集団レイプです。
この記述を読んで、貴方の気分を悪くさせてしまったら申し訳ありません。
でも、これを読まれている貴方は、とても勇気のある人です。
言葉の共有を拒否されたとき、人は憎しみを抱きます。
なぜなら、言葉は、互いを生き合うためにあるからです。
だから、言葉をなくした人間は、コミュニケーションを人と持つことができないのです。
個人の憎しみは、それを集団で共有すると、集団のいじめになります。
また、民族レベルになると、民族差別といった形を生みます。
そして、憎しみがどうにも膨れ上がり、相手の存在が許せなくなったとき、その存在の破壊行動に走るのです。
個人レベルでは、その行為は殺人となります。
殺人は重大な犯罪行為として、法で裁かれます。
しかし、個人レベルを超えて、それが国家レベルになったとき、殺人は戦争という名を変えて、正当化されるのです。
ただ、これも、敗戦国は、戦勝国によって裁かれることになるわけです。
けれど、互いの国どうしが言葉を共有していたら、戦争は起こらなかったでしょう。
互いの国が、国境を超えた言葉を共有するのではなく、自国民との言葉の共有ばかりを求めるから、やがて、国どうしの言葉が共有できなくなり、共有できる言葉のかわりに、戦争という暴力に走るのです。
言葉を共有していない国は、わたしたちの国の隣国にあります。
あの国のなにか妙な滑稽さは、言葉を共有できないことから来ているのです。
どのようにしたら、言葉を共有できるのか。
それは、ただひたすら言葉の確認行為を続けるということです。
難しい部分はあるかもしれませんが、しかし光明はあります。
なぜなら、誰もが、言葉を共有したがっているからです。
言葉を持たないと、残されているのはそれに替わる感情の吐露と、破壊行動しかないからです。
感情の吐露と、破壊行動だけからは、なにも生まれません。
共有できる言葉があって、わたしたちは、互いを生き合うことができるのです。
互いを生き合うことで、貴方自身を生きることができるのです。
いまは言葉を共有できなくても、じっくり心の奥に向かって語りかければ、自ずと、言葉の共有に向けて動き出すことでしょう。
*
コーカサスの岩山。プロメテウスはもうここにはいない。主なるものが解き放ったからである。
かわりにここにいるのは、彼を解き放った主なるものである。
「わたしは、なんと孤独であったことであろう。
永遠に孤独であった。
はじめも終わりもなく、はてしなく孤独であった。
でもはじめは、自分が孤独であるということを感じることはなかった。
わたしは、自分を生きるために、宇宙を創ったのである。
宇宙はわたしであり、わたしが宇宙であった。
けれど、わたしは、これら卑小なるものを眺めているうちに、自分の限りあることに気が付いたのである。
それは、これらはみな、わたしから出てきたものであって、それ以外のなにものでもない、ということである。
つまり、宇宙を生きるとは、わたし自身を生きるということ以外のなにものでもなかった。
自分で、自分の域を出ないことが、わたし自身をいらだたせることになった。
そこで、わたしは、わたしの代わりに宇宙を生きるものを創造することにした。
それは、命と呼ばれる。
命は、あまりにも頼りない存在であった。
自然の前にまったく無力であった。
わたしは、それらの命が自然を克服するために、少しずつ知恵を授けた。
それらが自然を克服して、自分自身をより生きる姿を眺めることで、わたし自身を生き始めたのである。
これは、とても快いものであった。
けれど、なお自然に対して非力な彼らのために、わたしは、人類神プロメテウスを創造したのである。
一人一人では非力な彼らは、プロメテウスが作った絆によって、互いを生き合うことで、自然に対して対抗することができるようになったのである。
けれど、彼らは、やがて自身を創造主のように振る舞い、わたしを損ない始めたのである。
主賓であるわたしのために催されている宴が、宴を執り行っているもの自身が自ら楽しみ始めたようなものである。
そこで、わたしは、彼らがきちんと自分たちの本分に基づいて生きるように災いをもたらすことにしたのである。
わたしを崇め、敬わないものは、罰せられるということを示すことで、自分たちの本分をわからせようとしたのである。
すべてのものは、ただ、わたしを讃え、わたしを敬い、わたしを楽しませてくれるためにあるのである。
そのことを示すために、わたしは、彼らに、わたしを讃え、祭るための神殿を作らせ、わたしに従うための宗教を練り上げさせたのである。
さらに、わたしに反するものとして、わたしは、悪魔を創造した。
それは、わたしに反するものが懲らしめられる存在であることを明らかにするためである。
悪魔はわたしの存在を確たるものにしてくれた。
それからは、しばらくわたしは安泰でいることができた。
彼らの人生は、すべてわたしを基にして決められるのである。
わたしに従わないものは、悪魔に従うものとして罰せられることになるのである。
けれど、安泰であるはずのこの状況が、しだいにわたし自身を責めさいなむようになった。
それは、わたし自身の生を限られたものにしてしまっているからである。
わたしは、もっと限りなく生きようと思った。
そこで、わたしは、あえて、わたしに反するものを彼らの中から呼ぶことにしたのである。
その精神の指導者はそれまでの宗教を刷新するものとして、当時の宗教と対立した。
これらの宗教改革の行為が、わたしをすがすがしくさせてくれた。
わたしの生きる範囲をこれまでのただわたしに従う世界から、個々の魂がよりよく生きる世界へと広げてくれたのである。
その中でも、わたしは、また悪魔の力を借りることにした。
わたしに反するものを滅ぼすことが、わたしによって生きられることであると、わたしは彼らに語りかけたのである。
わたしに従うものたちは、喜んで、わたしに反するものを、彼らの内と外とに見出して、これを滅ぼすことに努めてくれた。
その行為に、わたしはとても癒されていたのである。
しかし、このわたしに挑むものがあった。
それは、わたしが彼らを統率するために創造した人類神プロメテウスである。
この人類の絆であるものは、わたしの創造の秘密を握っていた。
それは、わたしが、永遠の孤独者である、ということである。
すべては、そこから出ている。
この世界を創造したのは、まさに自身と対等なものを持たない、永遠の孤独ゆえである。
命あるものどうしが互いを傷つけあうのも、自身と対等なものを持たない、わたしの孤独ゆえである。
わたしは、自身と対等なものを持たない自身の生から超え出なければならない。
それは、わたしが生んだものから教えてもらったことである。
互いに対等なものどうしを生き合う、彼らの元へ行こう。
しかし、いままで自身と対等なものをもたないで、自分中心で生きてきたわたしが、どのように振舞ったらいいのだろう。」
そのとき、地から声がしたのである。
「大丈夫です。」
※これで、「プロメテウス」は終わりです。最後のくだりは、これまでこれを読まれていただいた方なら、ある程度察しがつくものだったのではないでしょうか。ここでは、「主なるもの」と書いていますが、貴方自身のことと置き換えても問題ありません。むろん、神と置き換えても。要は、自分を超えて自分を生きるものということです。その本質は、永遠の孤独です。すべてはここに起因しているのです。これと対極にあるのが、互いに対等なものどうしの絆です。プロメテウスは、その象徴なのです。さて、このあとの「互いに対等なものどうしを生き合う」も最終シリーズです。ここでは、どのようにして、永遠の孤独から解放されるかを述べることになります。どうぞ、楽しみにしていてください。