いよいよ、「互いに対等なものどうしを生き合う」は、最終シリーズを迎えました。
この最後のシリーズとして貴方にお伝えするのは、13世紀から14世紀にドイツで活躍したマイスター・エックハルトです。
エックハルトは、わたしがもっとも影響を受けた人物で、彼からの波動を受けて、これまでのものを書き続けてきたと言っても過言ではありません。
エックハルトは、信仰において信仰心そのものが重大なる陥穽である、ということを説きました。
このメッセージは、当然、当時のキリスト教界に衝撃を与え、彼は宗教裁判にかけられ、獄中で病死することになります。
彼は、信仰心が、神との取引になっていることを、するどく指摘しました。
これだけ信じているのだから、神は自分を助けないわけはない、というわたしたちのその思いこそ、信仰そのものを貶めていることなのです。
つまり、それは、神を試していることであり、神を自分の思いに従属させているということなのです。
神が主なるものであって、わたしたちはそれに従うものであるはずだのに、主なるものと呼びかけながら、逆に神を自分たちの思いの僕にしている。
神を試すものに、神が手を貸したりするわけはないでしょう。
わたしたちの信仰心が、神を貶めているのです。
これと似たフレーズとして、わたしは、宮本武蔵の言葉を思い出します。
「神を祭って、神を頼まず」
神を信仰するが、神に頼らない。
貴方が神にふさわしい自分になれば、貴方が求めなくても、神自ら、貴方を助けてくれるということです。
エックハルトは、神から生きられるのにふさわしい自分になるためのことをいろいろ語っていますが、そのキーワードとなるのが「離脱」という思想です。
離脱とは、自分の思いをむなしくして、神を受け入れられる自分にする、ということです。
別の言葉でいうなら、神の器になる、ということ。
そこに貴方の思いなどは入りません。
神が貴方そのものとなる。
貴方が神となる、ということです。
神と一つになった貴方は、神についてなにも思うことはありません。
神について語ろうとすることは、神から隔たることになるのです。
仏教でいう無と近しいものを感じます。
このことから、エックハルトと仏教、なかでも禅との相似性について語られることがあります。
もしかすると、エックハルトは宗教を超えた普遍的な神存在を念頭にしていたかもしれません。
というのも、彼は、日常的に異教徒との対話を繰り広げていたからです。
異教徒にキリスト教を説くのに、キリスト教そのものを述べるよりも、もっと普遍的なものが必要だったのではないでしょうか。
もしかしたら、神を信じながら、宗教の違いから互いを傷つけあっていることに疑念を抱いていたかもしれません。
結果として、それはキリスト教そのものを超えた内容のものになった、とわたしは考えています。
キリスト教を超えたもの、さらに一歩進めて宗教を超えたものを語ること。
哲学、宗教を超えたものを想定すること。
それこそが、この哲学ブログでここまで書き続けてきたことの意味です。
さて、今回、ここで、貴方に語りかけるのは、以下のことです。
「貴方は、自分がより貴方が信じられるものから生きられたいなら、貴方の中から、貴方が信じられるものを一旦、外に置かなくてはならない。
そうして、貴方が信じられるものから生きられるのにふさわしい、貴方になることに努めよう。」
貴方は、難しいと思われたかもしれません。
自分の思いが強いほど、なかなかこれを実行することは難しいでしょう。
しかし、自分の思いそのものが、自分の思いに反していることだと考えられたら、貴方は、自分の思いに対して、もっと寛大になることができるのではないでしょうか。
つまり、頑張り過ぎなくてもよい。
今の貴方でいい、と自分に言ってあげられるのです。
貴方の思いこそがアダになっている、という発想が、貴方を自由にしてくれます。
そして、自分の思いから解き放たれた貴方は、貴方の思いを遂げる自分なのです。
貴方を、より生きられようとする貴方の思いから解放し、より生きられるのにふさわしい貴方を自ら創り上げましょう。