段階的に神の神性に触れ、理解すると説いたのが、フランチェスコ会士、聖ボナヴェントゥラです。
わたしたちは、神を一気に理解することもあるし、少しずつ理解することもある。
それぞれの段階において、わたしたちは、神の神性に触れてゆくことになる。
つまり、神をわたしたちの理解度にしたがって、説いたのです。
これは、わたしたち人間どうしについても大いに当てはめて考えることができます。
貴方は、貴方の隣人について最初あまり知らない。
でもなにか親しみがわいたりして、すこしずつ隣人について理解してゆくわけですね。
それは、まったく人それぞれです。
すぐ相手の中に入って、その相手のことが好きになる人もいれば、なかなか相手の中に入ってゆけないで、いつまでもその相手のことが好きでも嫌いでもなかったり、またヘンナ形で相手に触れたことで、その相手のことが嫌いになったり。
また、嫌いだったその人が、あることをきっかけになって、とても親しみがわいて、好きになったり。
逆に、親しみを抱いていたのに、その思いが裏切られたかたちになって、傷つき、その人が嫌いになったり。
理解の深さもさまざまあります。
最初は、たいしてその相手のことは知りません。
しかし、付き合ってゆくうちに、もっと親しみを感じられることが出来て、その人を深く理解するようになる。
ただ、理解というのは、完全なことはないのです。
完全に相手のことを理解した、というのは、じつは、あるところから先は、相手のことを理解しようとしないことかもしれませんね。
自分の許容範囲を超えて、相手を理解したくはないのです。
このことに気がついたら、貴方は、自分のことをなんと狭量の人間なのだろうと思うでしょう。
でも、そのことに気がついたということは、とてもいいことなのです。
自分は相手のことを理解したと思っても、それは自分が理解できる範囲のことに過ぎないのだ、と冷静に自分を見ることが大切でしょう。
その態度こそ、ほんとうに相手のことを理解するということなのだと、わたしは思います。
と、こんな偉そうなことを言っていますが、わたし自身、一番だめな人間だと思っています。
一番だめな人間だからこそ、見えてくるものがあるのではないか、と、自分に言い聞かせながら、毎回このブログを書いています。
だから、これを読まれている貴方が、わたしにいろいろ教えてください。
理解の度合いは、人さまざまです。
でもそれでいいのです。
大事なことは、貴方が、人とつながっていることなのだ、とわたしは思います。
人とつながっているうちに、誤解などが起こって、貴方が貴方の隣人とうまくゆかないことがあるかもしれません。
でも、わたしは信じたいと思います。
いまはうまく行かなかったとしても、以前はうまくいっていた。
ということは、縁があって、その人と出会ったのだ、ということです。
待ちましょう。いつか、貴方の縁があったその人が、再び貴方と理解し合えるようになるときが来ることを。
このシリーズは、このような人間関係の深みについて探ってゆくことになるでしょう。
なんかとてもわくわくしながら、書き進めることになりそうです。