ついさいきん、人間っていいものだな、と感じたことがありました。
これからは、自分も、誰かの力になれるように頑張りたいと思います。
では、今日の哲学ブログを始めます。
この世界は、どのように見えているでしょうか。
それに対して、「デカルト」以来の明晰な哲学をもって、解き明かそうとしたのが、フッサールであり、彼が創始した現象学です。
現象学を一言でいうなら、わたしが見るということは、わたしという存在と、わたしによって見られている世界から成り立っている、ということです。
つまり、わたしという存在によってはじめて成立しているのが、わたしによって見られた世界なのです。
わたしという存在を離れるとき、わたしによって見られる世界はどのような姿をしているでしょうか。
いや、そもそも世界を見るわたしとはどのような存在なのでしょうか。
ここに来ると、メルロ・ポンティの身体の現象学の話になりますが、現象学とは、わたしを、わたしの視野から解放するということなのではないか、というのが、わたしが思うところです。
貴方の視野は、ほんとうに、貴方のものでしょうか。
貴方はそのはずだ、と即座に答えます。
けれど、その貴方は、貴方がどのように世界を見ているのかを、ほんとうに分かっているのでしょうか。
貴方は、ほんとうに貴方によって見られた世界を、貴方のものだと言い切れるでしょうか。
自分の視野そのものに疑いを持つこと。
ほんとうに、貴方が生きる世界を見ているのか、を思惟するために、貴方の部分を括弧に入れる、という現象学的還元(エポケー)を、フッサールは提唱しました。
見ている自分を括弧に入れてみる。
そうすることで、今見えている世界が、ほんとうはどういう場所なのかを明らかにすること。
それは、自分の見たもの、感じたことを、安易に信じたりせず、冷静客観的に見据えようとすること。
とかくエモーショナルなものに流されがちな、わたしたちの理性を、より冷静な判断の下に置こうとする試みが、現象学的還元なのではないかと思います。
自分自身を括弧に入れることで、自分の考えや感じ方に惑わされないで、物を見る。
じっさいは、わたしの考えや感じ方がものの見え方に影響を及ぼしていることを実感することであったりします。
わたしたちの考えや感じ方が、じっさい、世界の見え方を左右しているのですね。
だから、本当のところは、わたしたちの考えや感じ方を外したら、世界はまったく形を変えて、どこか奇妙な場所になるかもしれません。
わたしたちが見ている世界というのは、わたしたちの考えや感じ方に合わせて、わたしたちが受け入れやすいように形が整えられたものだということです。
さて、ここからが本題です。
貴方は、自分の考えは間違ってはいないと思う。
けれど、人は、自分の考えに縛られるところがあります。
たとえ自分の考えが間違いだと気がついていたとしても、自分自身とあまりに密着しているので、貴方は、自分の判断を変えることができなくなるのです。
自分の判断が、自分の考えに縛られてしまうわけです。
そうしたときに、現象学的還元は、貴方を、貴方の考えから解き放つための武器だと言えるのです。
そうして、貴方の考えから貴方自身を解き放つことで、貴方は、なにが得られるか。
それは、より冷静に世界を見つめる貴方のまなざしです。
ほんとうはなにが正しくて、なにが間違っているのかを、見間違いやすい貴方の目に代わるものを持つということです。
ところでわたしたちは、自分たちの中にさまざま対立を生み出し、おびただしい同胞の血を流してきました。
それは、互いの理性が(とくに政治をつかさどる人たちが)、互いの視野に奪われてしまった結果だったのだという感じがします。
自分は絶対的に正しくて、相手が完全に間違っているという思考です。
それは、あたかも、自分の見方というのが、神のような完全無欠な存在のお墨付きをもらっているかのようです。
いったい、どうして、こうもわたしたちは、まるで神にでもなっているような振る舞いを、自分と自分のまわりの人たちに行い得るのでしょうか。愚の極まれり、です。
たしかに、自分が間違っているかもしれない、という視点を、わたしたちは普段から、持ちにくいのかもしれません。
とくに政治的な決断をたえず求められる場所の人たちは、自分の視野にとらわれやすいのかもしれません。
現象学は、わたしたちが自ら作り出した対立と戦争に抗する意味で、登場してきたもののような気がしてなりません。
わたしの視野から解き放たれた世界の真の姿を明らかにすることが現象学なら、わたしの視野そのものを解き明かそうとするのがハイデガーないしサルトルの実存哲学ということになるかと思います。
そういうわけで、今回の「プロメテウス」は、自分の視野にとらわれている人たちのことを書きたいと思います。
*
プロメテウス、おびただしい人たちが傷つき、倒れている荒れ野を見渡すと、朦朧として、いまにも息絶えようとしている人に語り掛ける。
「心とからだを傷つき、損なった哀れな魂よ。
貴方は、どうして、そこに傷つき、倒れているのだろうか。
貴方をそのようにしたものは、誰か。
わたしは知っている。
自分の目にとらわれた、貴方自身である。
貴方の目がいかに貴方が生きる世界を見えなくさせているか、貴方はそれに気がつかなかったのである。
貴方は自分の目で世界を見ているつもりでいる。
けれど、本当は、貴方の目は、世界を見ているのではなく、世界の見方を見ているのである。
世界を見ているようでいて、じつは見せられているのである。
貴方の目は、ただ見せられているものを見ているのに過ぎないのである。
世界をあるがままに見ることができるのは、むしろ視力を失ったものたちである。
しかし、傷つき絶命しかかっている貴方には、世界があるがままに見えている。
それは、貴方から視力が次第に奪われているからである。
視力を完全になくしたとき、貴方は、貴方をこの瀕死の状況に追いやったものの正体が見えている。
しかし、貴方は、もう自分をこの死地にやったもののことを責めたりはしない。
なぜなら、いっさいの視力を失い、この世界を去る貴方は、この世界を生きたことにただ感謝の涙を流すからである。」
※次回以降の「プロメテウス」は、実存哲学を有神論的な立場と無神論的立場の代表者を通して検討してゆくことになると思いますが、その前に、中世の神学者たちからインスピレーションを受けて論じる「互いに対等なものを生き合う」の聖ボナヴェントュラ編をお送りしたいと思います。