互いに対等なものどうしを生き合う 第46回 聖ボナヴェントゥラその二 段階的に生きられる言葉 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。


 この世には、貴方が生きる上での、さまざま言葉があふれています。


 それは微妙なニュアンスの違いであったり、相反するものどうしであったり。


 しかし、みな同じものに根ざしているのです。


 それは、よりよく生きるということです。


 ただ、その目的に対するかたちが、それぞれ異なっているというだけです。



 わたしたちは、とかくそれぞれの言葉の違いに目を向け勝ちです。


 けれど、それらの言葉がじつはひとつの共通のことに根ざしている。


 この事実に、フォーカスすべきでしょう。


 たとえば敵対する宗派のひとが、じつは同じことに喜びを感じ、同じことに悲しみ、同じことに怒り、同じことに笑ったりするのです。


 同じことに注目すれば、いったいなんで争っていたのだろうということになりますよね。

 違いにそれほどこだわって生きる、ほんとうにそんな必然性はあるのだろうか、と思うのはわたしだけでしょうか。


 でも、こだわっている人間がいるのもまた事実です。


 そのこだわっていることの意味をわたしは知りたい。


 どのように相異なる言葉を持っているものどうしの間でも、ともに分かち合うことができます。



 言葉の違いは、じつは個性の違いです。


 人それぞれがぞれぞれ違う存在であるように、それぞれが自分の言葉を持っているのです。


 そうして、言葉には、それを持つものの中で、よりよく生きるための段階を生きていると考えるべきでしょう。


 それは、わたしと貴方とを比較して、どちらが下の段階とか上の段階とかいうことではなく、あくまで、その人の中での段階ということです。


 そこを間違うといけません。


 自分の言葉を相手に押し付けるということは、相手がせっかく段階を踏んで生きているのを妨げることになります。


 自分に必要なものは、自分から獲得しにゆきます。


 かりに貴方が、相手に自分の言葉を語りたいと思ったら、相手がそれを自分のものにしていいという時まで、待ってください。 


 それぞれには、それぞれの段階に合った言葉があります。


 幼い子に、大人の考えを持たせることがふさわしくないように。



 それぞれには、それぞれの段階に応じた言葉がある──。


 すると、相手に自分の言葉を伝えるには、相手自身の言葉を用いるのが一番いいかもしれません。


 難しいことですが、そうして、互いが相手の言葉を用いることで、互いは互いをより深めてゆくことになり、


さらには自分自身をはぐくむことができるのです。




 ところで、貴方は、どのようにして、自分の言葉を持ったのでしょうか。


 それは、貴方がまじわった相手から、相手の言葉を用いることを通して、自分の言葉を見つけてきたのです。


 貴方がまじわる相手の言葉の中から、自分のステップに合った言葉を、貴方自身がその都度都度に、選び取ってきたのです。


 語り切れない。


 そうですね。


 言葉は無限に貴方と貴方の隣人との間に、いくつもの段階的な層をなして広がっています。