プロメテウス 第37回 自分の運命を選びとる自由 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 個人の存在の意味を歴史や社会の中で捉えてゆくヘーゲルの哲学に対して、歴史や社会とはかかわりなく個人の存在の意味があることを主張したのが、デンマークの哲学者キェルケゴールです。


 社会的動物であるわたしたちが、歴史や社会とは無関係でいることはできないことは確かです。


 人間が人間たるゆえんであるのは、この社会があるからです。


 互いが社会的な意味を持っているのが、人間なのです。


 けれど、それだけではない、と叫んだのが、キェルケゴールでした。


 確かに社会的な存在であることは間違っていはいない。


 けれど、社会はいつしかわたしたちを疎外するようになったのです。


 それは当時の産業革命以後の工場労働者の大幅な人口増加も背景としてあるでしょう。


 人は、しだいに社会から生きられているという実感を持てなくなっていきました。


 社会的な存在であるわたしたちは、その社会そのものからしだいに乖離するようになったのです。


 社会的な存在というわたしたちの前提が大きく揺らいでいったとき、キェルケゴールが、社会よりももっと強固な絆として求めていったのが、神との唯一無二の関係でした。


 これは、彼が信じていたプロテスタントの信仰のかたちである、神との一対一の関係を、さらに突き進めていったものとも考えることができます。


 彼は、神との関係において、他の誰とも替えることのできない、自分という存在を発見したのです。


 この「わたし」という存在は、今、神と向かい合っている、この自分以外のなにものでもない存在である。


 今、神と一対一で向かい合っている、この自分について、これまで、誰も語っていなかったのだ、と彼は気づいたのです。


 これまでの哲学は、みな一般的な存在としてのわたしを語ってきたのに過ぎませんでした。


 他の誰でもない、このわたしについて、これまで誰一人として語ってはこなかったのだという事実に、彼はとても驚嘆したかもしれません。


 その確信が、彼を、これまでまだ誰も行ってこなかった、「実存」の探究者となることを決意させたのです。


 実存とは、なにものかである以前の、このわたしのことです。


 いっさいの言説(本質論)に先立つ存在。


 のちに実存哲学を完成させた、サルトルは、実存は本質に先立つ、という有名な言葉を残しています。 


 神との唯一無二の関係は、このわたし以外の誰も所有することはできません。


 わたしだからこそ、持つことができるものなのです。


 誰かがわたしの代わりにどんなに生きようとしてもそれはわたしの生とはまったく無関係です。


 わたしの生は、わたし自身が生きなければ、まったく意味がないのです。

 それは、わたしが、いっさいの言説よりも前に、神と一対一の生を生きているからです。


 これは、わたしの生はわたしだけが所有するものというくらいに、頑強な真実です。


 神との関係において、彼はいっさいの言説から解き放たれて、神との永遠の関係を生きているのです。


 一方、神との唯一無二の関係を持つことができない人間は、絶望したものであることを彼は理解します。


 神との唯一無二の関係こそが、唯一生きることの意味であって、神とのそのような関係を持つことができない命は、永遠の生を持つことができない病んだ魂であり、永遠の生を持つことができなくさせるそれは、限りある生をただその終わりに向かって突き進む死に至る病だという結論に達するのです。


 このことを理解した哲学者は、神との唯一無二の関係のみに生きることを決意して、社会的な存在として生きることを拒否したのでした。


 当然、彼は社会から変人扱いされたことでしょう。


 しかし、それが、彼が選び取った生き方だったのです。


 あれかこれか(彼の著作のタイトルにあります)──。


 どのような生(運命と言い換えてもいいかもしれません)も、わたしは選び取ることができる。


 自分の運命を選択することができる自由。


 それこそが、実存の持つ、最大の意義なのです。


   *


 プロメテウス。


 「わたしを超えてわたしを生きる、わたしであるものよ。


 貴方は、かくして、貴方にとって、もっとも居心地のよい住処を得たのであった。


 それは、ただ貴方との関係を生きる実存という、魂の囚人である。


 貴方は、貴方にささげられた、貴方との唯一無二の絆ではぐくまれた、からだを生きることを通して、永遠の孤独者である貴方自身を癒すことを、ついに果たしたのである。


 おお、貴方は、どんなにかこのからだを求めてきたことだろう。


 これまで貴方にしたがってきたものたちが、貴方にはどんなに信用のおけないものたちであったことか。


 彼らは、貴方を信奉しながら、貴方をさまざまに利用したものたちであった。


 だから、貴方は、あえて貴方に反するものを、貴方を信奉するものたちのもとへ導いたのである。


 けれど、これまでの試みはみなことごとく失敗に帰してきたのであった。


 だが、貴方はついに貴方にふさわしいからだを手に入れた。


 あらゆる言説に先立つ実存こそ、貴方が貴方のからだであるものを生きる最良の場所なのである。


 あらゆる言説に先立つ、貴方のからだであるものは、貴方が貴方のからだであるものを生きる上でのあらゆる障害を取り去ってくれるのである。


 しかし、わたしは、なお貴方に、安泰でいることはできないことを忠告しよう。


 貴方はそれでも少しも安泰でいることはできない。


 なぜなら、実存は、両刃の剣だということである。


 貴方は、あらゆる言説から自由になることができるが、同時に、貴方から生きられる、貴方のからだであるものもまた、貴方自身から自由になる可能性があるからである。」



※ここで、いったん、「プロメテウス」を離れ、「互いに対等なものどうしを生き合う」のマルティン・ルター編に行きたいと思います。ルターのプロテスタント運動を通して、キェルケゴールが発見した実存の意味を探っていきます。