これから、第三ステージの新しい章を始めたいと思います。
今回、取り組む互いに対等なものどうしを生き合うテーマは、否定できない、ということです。
このテーマにふさわしい中世の神学者は、アンセルムスです。
アンセルムスは、神の存在を、わたしたちの問いそのものに求めます。
貴方は、神の存在について問う。
そのこと自体がすでに答えだ、とアンセルムスは言います。
神の存在がなければ、そもそもその存在を問うことなどありえない、というのです。
仮に神がなかったら、貴方は、神というものがわからないから、問いようがない、ということになる。
神というものがわかっているから、神について問うことができる。
神がわかっているということは、神の存在をおのずから証明してしまっているのです。
なんだか、デカルトの「われ思うゆえにわれ在り」と響きあっている気がします。
わたしたちは、知らず知らずのうちに、神の存在を認めているのです。
神は存在しない、と言いながら、神の存在はある、と言っている。
言葉でそれが示されていないだけで、本質は神の存在を誰もが認めている、というのです。
わたし自身はどうかというと、神とは、わたしを超えてわたしを生きる、わたしの自分であるもの、ということになります。
ただ、普通に言われる神とは異なります。
なぜなら、それは、わたし自身でもあるからです。
わたし自身であって、神でもあり、さらに悪魔にもなりうる存在ということになるかもしれません。
さて、神の存在についての論議はこの辺にして、ここでは、わたしたち自身について考えを深めたいと思います。
第一回は、わたしが否定しようが関係なく、わたしを生きるわたしの生を取り上げたいと思います。
貴方は、生きることとはどういうことなのか、と問います。
しかし、それは、もうすでに貴方自身が答えを出しているのです。
それを貴方がどう言葉にするかだけの問題なのです。
なぜなら、貴方が生きることとはどういうことか、と問うこと自体が、もう生きるということなのですから。
問いかけのうちに答えが含まれているわけです。
また、貴方は生きたくないと言います。
しかし、それは、貴方が生きたいということの表明なのです。
貴方が、死んだあとの見方を持っているから、死んだあとの自分に憧れを抱き、新たな、その自分を生きようと欲しているのです。
また、貴方は生きていない、と自分自身を見据えます。
しかし、それが貴方が生きているということなのです。
貴方が、生きているとはどういうことかという見方を持っているから、それに合致しない今の自分をそのように言い表しているのです。
どのような心の状況であっても、貴方は常に生きるということから離れることはできません。
つまり、貴方の心とは無関係に、貴方は自分を生きているのです。
もしこれを貴方が生きているということをそのまま受け入れることができたら、貴方は、貴方の心から解放されることになるでしょう。
これがもしかしたら、仏教でいう解脱ということの意味なのかもしれません。
貴方が生きていることそのままに生きることができれば、貴方は自分の心を自由自在に生きることができるのです。
これは、互いに対等なものどうしの間で生き合われる貴方において、さらに広がりをもつことになります。
さらに、貴方が生きるということの意味を探ると、それは、貴方が貴方と対等なものから生きられていることは否定しがたく、また、貴方と対等なものもまた、貴方から生きられている、ということは否定しがたいという、真実に出会うことでしょう。
貴方がどう思おうとも、貴方は貴方の隣人から生きられ、貴方の隣人もどう思おうと、貴方から生きられているのです。
貴方は、貴方の隣人から離れて生きようとします。
しかし、貴方はどんなに貴方の隣人から離れても、貴方の隣人から生きられている。
貴方の隣人もまた、貴方からどんなに離れようとも、貴方から生きられているのです。
それは、こうです。
貴方は、貴方の隣人のことを意識しない、ということが、すでに、貴方の隣人を意識する、ということだからです。
貴方の隣人を忘れようとすることが、じつはよりいっそう自分の心に刻むことでもあります。
だから、人間の出会いというのは、とても運命的なのです。
自分の思いとは別に、貴方の人生に対して決定的な意味を持つのです。
たとえ忘れていたとしても、完全に忘れることができない。
ひょっとしたら、貴方が人生の最後のとき、貴方が出会ったすべての人たちが貴方の中に現れてくるかもしれません。
そのとき、貴方は、それまでの良い思い、悪い思い、いっさいがなくなって、自分の生そのものとなって、自分が出会った人たちと、無垢な交わりをしているのではないでしょうか。