脱線ついでに、 昨日NHK Eテレでやっていた「日本人は何を考えてきたのか 第7回 魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~」で紹介していた柳田民俗学の哲学的な側面について述べたいと思います。
じつは大学時代の四年間、わたしは東北の村々に伝わる伝承や風習について訪ね歩くという貴重な経験をさせていただきました。
この経験が今のわたしの思想を支えている主要な部分の一角をなしていると思っています。
柳田國男が始めた民俗学は、それまでの歴史に対する反省から生まれたものです。
歴史といえば、わたしたちは名のある人たちの栄枯盛衰の物語を思い浮かべます。
しかし、それは本当のわたしたちの歴史とはいいがたいものではないか。
たしかに名のある人たちがわたしたちの生活に大きな影響を及ぼしてきたのは間違いないが、わたしたちの生活を伝えるものではありません。
わたしたちの生活とはなになのか。
そして、わたしたちの幸福とはなにか。
民俗学は、名を持たないわたしたち自身を探究する学問として始められたのです。
さらに、この新しい学問が革新的なのは、現在は過去のものの否定の上になりたち、未来は現在の否定の上に成り立つという、従来の歴史哲学を批判し、現在の中に過去は含まれ、未来は現在を含んでいるという哲学を打ち出したことです。
あとで触れることになりますが、これはヘーゲルの歴史哲学に対するアンチテーゼです。
ヘーゲルは、歴史とは過去のものの否定につぐ否定の運動である、という論を展開しますが、民俗学では、歴史は過去のものの発展なのです。
過去がよりよく生きられたものが現在であり、未来は現在がより生きられたものなのです。
過去のものなどまったくないように見えているものも、その中には過去のものがしっかりと息づいています。
そして未来的なものは、じつはとても古代的なものなのです。
わたしたちの中には、はるか昔の心がじつは隠れていて、よりよく生きようとして現在のわたしたちを作り、また未来のわたしたちを創造しているのです。
過去のものを軽蔑するものは、未来を軽蔑するものです。
すぐれて未来的なものは、もっとも深く古代のもので満ち溢れているものなのです。
その民俗学がテーマとしていること、それは、普通であることの探究です。
普通なこと。それはとても奇しきことなのです。
わたしたちは、奇しきことを当たり前のこととして生きています。
しかし、ふとこれはとてもすごいことなんじゃないか、と貴方は気が付きます。
これは、すごい!
この、本当はすごいことである、普通のことを探究する。
それこそが、民俗学を成り立たしめているものです。
最後に、番組について触れさせてもらうと、去年の大震災で被災した東北岩手の三陸地方を、作家重松清さんが訪ね歩いていましたが、津波が押し寄せる中で二十代の女性職員がアナウンスをしつづけて、命をおとしたことで知られる場所に献花台が設けられていて、そこに、一人の年輩の方がやってきて、死者の霊をとむらう姿に、そこに居合わせていた重松さんらがとても感動していたのがとても印象的でした。
弔うとはどういうことなのか、ということを見せられたという気がしますね、と語っていました。
その方はどういうことをしていたか。
番組の再放送でもあれば見られるといいと思います。
もっとも、そうしたことは当たり前だと思われるかもしれません。
当たり前と思うこと、それがじつは民俗学が求めていたものなのです。
それはこうです。
花を替える。水を替える。手を合わせる。礼をする。
それもじつはすごいことなのですが、ここでとても注目すべきことをしているのです。
その方は、そこに供えられていた蓋付きのジュース?コーヒー?それがなになのかよくわからないですが、蓋をあけてそれを飲むと、また蓋をしめてその場所に返したのです。
おわかりですか。
ここが重要です。
つまり、これは、目には見えないがここにいる方と飲食を共にしたということなのです。
それを、このなにげない行為の中に表しているのです。
これこそ、わたしたち日本人がしてきた精神の歴史なのです。
生者と死者とは、ともに生きているのだという思想です。
人は死んだら、もうわたしたちとは関係ない存在になるのではなく、わたしたちの記憶を通して、また残ったものを通して、死んだ魂とつながっているのです。
よくこんなことを言いますね。
死んでも、草葉の陰から見守っている、とか、空の上で見守っているとか、ご先祖さまが見守ってくれている、とか。
お盆のときには、先祖が帰ってくるといい、墓参りしたりしますよね。
非科学的だとか、迷信だとかいう方もいるでしょうが、これがわたしたちの生の真実なのです。
非科学的だとか、迷信だとかいって、目をふさぐのは、それこそ非科学的であり、迷信的な行為なのです。
わたしたちがどのように生きられているか、それをまっすぐに見つめる姿勢こそが、真の科学的な態度といえるでしょう。
また、番組の中で、「遠野物語」第99番の津波で妻を亡くした男の話が紹介されていて、ここで語られたことが考えさせられました。
男が浜を歩いていると、男女の幽霊と遭遇します。
女はなくなった自分の妻で、傍らの男は、妻が自分と結婚する前に深い仲であった元恋人で、やはり津波で命を落としたのです。
妻は、今この男と夫婦になったのだ、と自分に告げる、というだけの話ですが、これについて番組では、どうしてこのような話が残っているのだろう、と考えてゆくと、これは男がそのように納得した話なのではないかという結論になりました。
物語とはついていますが、これは創作ではなく、じっさいに伝えられていることらしく、この登場人物の子孫の方が番組で紹介されていました。
幽霊とはなにか。
それは、許しなのではないか、と番組では述べています。
死んだものはもう帰ってこない。
生きているものは、死んだものたちの後を生き続けなければならない。
そこには、死んだものたちに対する、生きているものからの償いのような気がします。
貴方がたを死なせておいて、自分たちが生きつづけることをどうか許してほしい。
生き残ったものの務めとして、貴方がたの分もしっかり生きるから、と。
非科学的だ、ばかばかしい、とするのではなく、それがわたしたちの心に対して意味するものをまっすぐに見つめてみるべきでしょう。
私ごとですが、大学時代に、民俗学というものと出会えたことは、とても幸いだったと思います。
この経験が、今哲学をやる上での、大事な支えになっています。