昨日にひきつづいて、絵画について書きたいと思います。
たまたま偶然見ただけだったのですが、今朝のNHK日曜美術館で銅版画家南桂子を取り上げていました。
夫は世界的に知られる銅版画家の浜口陽三です。
以前、白金にある庭園美術館で開かれた浜口陽三の作品を見たことがあって、暗い背景にたださくらんぼが並んでいるだけの単純な構図に、とても深い感銘を覚えたものですが、その奥さんもまた銅版画家ということを今回初めて知りました。
しかも、これもまたどこかで見たことがあるのを感じました。
どこでだったろう。
もしかすると、これを読まれている貴方もどこかで見たことがあるに違いありません。
南桂子で検索すれば、ご覧いただけます。
じっさいは見たことはなくて、ただ、作品がどこかで見たことがあるような気にさせるのかもしれません。
一言でいうなら、南桂子の作品は、どこかで見たことがあることを感じさせる作品なのです。
どうしてか。
それは、わたしたちの中の内なる子供、インナーチャイルドが表現されているからなのではないかとわたしは思います。
富山の大きな家に生まれ育った彼女は、幼いときに相次いで両親を亡くし、孤児のような心を抱いて少女時代を送りました。
孤児のような心というと、わたしは、彼女より十歳ほど年上の小説家、川端康成を思い起こします。
彼もまた早くに両親を亡くし、自分のねじまがった孤児根性を治すために、あの小説「伊豆の踊り子」の下地となる旅に出たのです。
銅版画を知るまでの彼女は「二十四の瞳」の作者である壺井栄に師事し、童話作家を目指していたということですが、彼女もまた、自分の中の孤児根性を癒すために、自分の内なる子供、インナーチャイルドと向き合うために童話を書いたのではないでしょうか。
やがてのちの夫となる銅版画家浜口陽三と知り合い、そこから銅版画家南桂子が誕生することになります。
夫浜口陽三はさくらんぼなり、ぶどうなりがどのように空間に置かれているかで、作品を作ってきましたが、彼女もまた、少ない題材と単純な構図によって、見るものの心に深い感銘を呼び起こす作品を作り続けてきました。単純なものにこそ、深い世界がある、というように。
ところで、彼女の作品では、なにを見ているのか見ていないのか、わからない、いつも同じ無表情な顔をした一人の少女がよく出てきます。
いったい、この少女は、なにを見ているのでしょうか。
ひょっとして、この世界に生まれ出たときの赤ん坊のような純真さが、この世界を見回しているのかもしれません。
また、鳥が頻繁に登場してきて、少女に向かって語りかけているかのようです。
この鳥はいったい少女になにを語りかけているのでしょうか。
それは、もう一人の自分かもしれません。
もう一人の自分が、自分の内なる子供に向かって語りかけているのです。
ほかに木々があることもあれば、川があることもあり、山があることもあれば、ときにお城が登場したりもしますが、そうしたものは絵のテーマに食い込むことなく、どこか希薄な存在としてたたずんでいるだけです。
つまり、少女だけ、もしくは、少女と鳥だけの、単純な道具立てが、絵を見るわたしたちの心に、豊饒なイメージをもたらしてくれているのです。
ここに登場する少女は、南桂子の心の中に住む、本当の自分、孤独な自分、インナーチャイルドであるとともに、これを見る側の心の中に住む、本当の自分、孤独な自分、インナーチャイルなのです。
だからこそ、わたしたちは、初めて見る絵に、どこか以前に見たことがあるような、なつかしいものを感じたりするのではないでしょうか。
絵の中のものと、絵を見るものの心の中に住む、本当の自分、孤独な自分、インナーチャイルドが互いに響きあうところで、南桂子の作品は完成されるのです。
同じように、単純な構図で世界を表現した有元利夫もまた、わたしが深い感銘を受けた画家の一人です。
いずれ機会があれば、有元利夫についても、ブログで書きたいと思っています。
