カメラ・オブスキューラという技法~フェルメール | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 今日、誘われて上野で開かれている、マウリッツハイス美術館展に出かけてきました。


 ここで目玉なのは、オランダの画家フェルメール(1632~1675)の「真珠の耳飾りの少女」です。


 頭に青いターバンを巻き、耳に真珠のイヤリングが光っている、年のころは十代のなかば、これから大人の女性として色づこうとする直前の一瞬の姿を、あたかもスナップ写真のように切り取ったものです。



同胞たる、おっとりとした頬を求めて!


 この画家について、わたしにはずっとある疑問がありました。


 それは、彼が自分の絵を描くときに、カメラ・オブスキューラという技法を用いていたことです。


 これは、レンズを通して縦横のマス目の上に映し出されたものを、同じく縦横のマス目が引かれているキャンバスの上に忠実に再現してゆく技法です。


 素人が言うのもどうかと思いますが、なんだか、素人でも誰にでもできそうなことを、プロの画家がするということが、ずっと不思議に思っていました。 


 一流の画家が自分の目を信じずに、カメラという機械を通して映し出されたものをキャンバスに映して描くとは。


 いろいろなものを読んだり、見たりしても、その辺のところの明確な答えを見聞きしたことがありませんでした。


 たまたま当時新しい技術として知られるようになっていたその手法を珍しがって用いただけだったのだろうか、という印象をずっと持っていました。



 その謎が、今日解けたような気がします。


 写真もそうですが、絵画は、あるシーンを切り取る行為を通して、あるメッセージを伝えるものということが言えます。


 あるシーンを切り取り、あるメッセージを伝えるということは、とても主観的な行為です。


 どのように切り取るかで、伝えたいことが伝わったり、また伝わりにくくなったりします。


 しかしあるシーンを切り取るにしても、切り取る方法としてカメラという機械を用いることで、客観的要素が加わり、どこか突き放したような、さめた目を絵の中に取り込むことになるのです。


 フェルメールが活躍した時代は、同じくオランダの哲学者デカルト(1596~1650)の1637年「方法序説」によって、主観的なものを排除して、客観的な手法によって現実を把握しようという、近代哲学の黎明期と重なります。


 フェルメールが同国人のデカルトの影響を受けていたことは十分に考えられます。


 画家もまた、自分の絵画に、客観的な手法を意図的に用いようとしたのではないでしょうか。



 主観的要素が抑制された空間は、そこに得も言われぬ空間を作り上げます。


 それは、存在のもつ、はかなさ、危うさを表現するのに適した方法かもしれません。


 フェルメールはそのことに気づいた画家だったのではないでしょうか。


 だからこそ、この技法にこだわって、絵画を描き続けたのです。(現代アートの世界でも、この技法を用いている芸術家がいます。)


 彼の作品としてもっとも有名な「真珠の耳飾りの少女」(または「青いターバンを巻く少女」とも)と呼ばれている小さな肖像画の中の少女の姿はまさに、少女という存在のはかなさ、あやうさを表現しているように思われます。


 ただ、カメラを通して映し出されたものをなぞるというだけでは、画家の魂は許さないでしょう。


 フェルメールの非凡さは、ここからです。


 フェルメールは、機械を通して映し出された現実の姿に、デフォルメを加えてゆくのです。


 それは、注意してみなければ気が付かないようなデフォルメです。


 あたかも、わたしたちの目は現実を作り変えて、このように見ているのだ、と言っているかのようです。


 もうひとつ有名な「ミルクをそそぐ女」の絵をご存知な方も多いと思いますが、じっさいミルクのツボの口は見えないはずなのに、わたしたちの目に見えるようにし、ミルクがその口からからそそがれているのです。


 これは、見る側に画家が、「ねえ、君、ミルクはこのようにしてツボから注がれているよね。これがわたしたちの意識が勝手に作り変えている現実の姿なんだ」と語りかけているような気がします。


 あたかも絵画とは、画家が現実をデフォルメすることを通じて、絵を見る側とするおしゃべりの場であるかのようです。


 それは現実の生をよりいきいきと表現しようという画家の心であるとともに、現実のわたしたちの存在をはかなさ、危うさから解き放ち、よりよく生きようとする生への強い意志のように思えてなりません。