わたしの心の故郷、それは岩手県岩手郡雫石町です。
県庁所在地盛岡の西に位置し、岩手山を北に望み、小岩井農場で知られる地です。
わたしは一応、東京出身ということになっていて本籍も東京渋谷区ですが、じっさいの出生地は雫石町です。
子供の頃、夏休みや冬休みとなると、かならず遊びに行っていました。夏休みはほとんど一か月の間、行っていたのです。
今でも夏になると、子供の頃に遊びに行った岩手県の自然と素朴な町のことが思い出されます。
さて、これから紹介するのは、じつは、今年の二月の下旬に本ブログで前後編にわけて掲載したものです。
昨日は柳田民俗学について触れたということと、いまだ復旧が遅れている東北の人たちへのエールと、そして、たまたまあるところで知り合った東北出身の方へのほんのささやかな贈り物として再掲載させていただくことにしました。
ちなみに、これは、もう十年以上前に書いたものです。
かつて観光地化があまりされていず、素朴な町だった雫石も、新幹線が通るようになってから、さらに観光地化が進んで、大分変わりましたね。
観光地化されていないところが、とても気に入っていたのですが。
子供のころ、夢幻の中に遊んでいた場所は、水が堰き止められて人口の湖(御所湖)になりました。
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これは今からだいぶ前(すなわち1993年の夏)、末期のガンで入院している叔父を見舞いに、自分の生まれ故郷に久しぶりに帰った時のことである。
四年前に自分の伴侶となった人を親戚の人たちに見せに行った以来で、そのまた前となると十年近く、私は郷里の地を踏んではいなかったことになる。
この間郷里は急速に観光地化が進んで、かつて私が歩き回った素朴な郷里は失われていった。
何々森と呼ばれる小一時間も歩けば登れる小高い山の一つのてっぺんから朝焼けの中で眺めた、この地方の街道筋に沿って続く町が、朝日を受けて輝いている田の海の中に、細長く一筋に伸びた森に呑み込まれているように見えたことを思い出す。
あちこちから朝の準備のためにおこされた煙がきらめく靄の中に混じって棚引いているのを、私は素晴らしい一幅の絵を見るように涙が出るほど感激して、いつまでも飽きずに眺めていたのを鮮やかに記憶している。
今はこの景色も失われようとしている。
古い人はみないなくなり、新しい世代に次々と変わって行く中で、人の情まで変わって欲しくはないと切に願わざるをえない。
子供のころ私にとって聖地だった場所は、今はダムのために出来た人造湖の底に沈んでしまった。
私が生まれた家は崖の上にあったが、もう十年くらい前に田んぼの真ん中に移った。
その私の生家があった崖の端はクルミなどの木が茂っていて、家の畑のそばまで野生のリスがよく遊びに来ていた。
崖の真下を単線の列車が走り、その向こうは一面の田の海でリアス式の海岸のように森が迫っていた。
この景色がとても忘れられない。
昨晩はちょうどお盆の迎え火で、私の一言から、この田の中の家に越してから初めてという迎え火をしてくれた。
今までしていなかったということを聞き、私はちょっと驚いた。
そういう行事は当然、変わらずに続くものだと思い込んでいたからだ。
伝統の行事にかまっていられなかったのだろうか。
どうしてやめていたかと訊こうとしてやめた。
それぞれの事情に外部の人間である私が口を差し挟むことではないと思ったから。
ただ、外で暮らしてきたからこそ、郷里の人がちょっと変わってしまったような寂しさを感じた。
あとで叔父から聞いたことには、町内会で消防の面から迎え火の自粛が言われているのだという。
また、墓参りの際お供えものを持って行くのだが、昔は先祖の霊を送るためにお墓に供えたものを川に流していたという。
それも最近、寺の方から川には流さないようにと禁じられていると聞いた。
寺も行政と同じになったなと思った。
合理化の波の中で様々な物が簡素化形式化されて、そのこまやかさこそが命だったものが魂のこもらぬものになっていっている気がした。
魂のこもらぬものは消えて行く運命にあるから仕方がないとも言えるが、そもそもどうしてそう容易く合理化に根こそぎ押し流されてしまわねばならぬのだろう。
これも東北地方に生きる人間のコンプレックスの現れなのだろうか。
子供の頃、東京で暮らす私たちは毎年、夏休みには欠かせず東北地方にある田舎に遊びに行っていた。
そうして夏休みを象徴するのがお盆にまつわる一連の行事だった。
お盆を過ぎると夏休みは急速に終わりに近づく。
お盆の先駆けとなる迎え火は沿道にずっとたき火が焚かれて、神秘的な雰囲気に町全体が包まれる。
この火を目印に先祖たちの霊が戻ってくるのかと、私は子供心ながらに厳粛な気持ちに浸っていた。
割り箸を割らずに薄い煎餅を挟んで、迎え火の火で炙って食べる。
いったいこうした風習はいつ頃から始まったのだろうか。
そのあとの残り火で花火をして遊んだ。
花火はこの場合大きな物ではなく、小さな手持ちの花火で、あちこちで花火をするので、
町全体がなにかいっそう情緒的なものにいざなわれている気がした。
昔を思い出して家の前で迎え火を焚き、家の人総勢で薄い煎餅を火に炙って食べた。
よく炙るためには火になるだけ近づかないといけない。
あんなにも火は熱いものかと思った。それは小さい頃にも感じた火の記憶である。
手に感じた火の熱さは忘れられないものだと思った。
朝、私はなにか胸がザワザワとして起こされた。
いったい何だろうと、障子を開けると、まだ明け切らぬ薄明かりの中で田の稲が波のようにうねっている。
私はこの家が田の中にあることを思い出した。
私は、なにかにとても急かされてでもいるかのようにあわてて着替えると、家の人を起こさないように静かに引き戸を開けて外に出ていった。
そして私は見た。
田の稲のワサワサとしているのを。
まだ実りのない稲の葉末が炎の舌のように見えた。
幾万という火がちろちろと大地の上に燃え立っている。青白い炎を揺らめかしているのだ。
昨晩遅くに降った雨の滴が稲に残り、そこに雲を透かした鈍い光が妖しげに照らし出したからだろうか。
炎は無数の剣先のように冴え冴えとして、恐ろしいほどの威圧感をもって私を圧倒した。
古代のわれわれの祖先が、今日のわれわれには想像することが出来ないほど自然に対して畏怖の念を抱いていたことが、思い返される。
いったいなんということだろう。
私の心がこの時、古代の心を感応していたのだろうか。
きっときのうの晩、迎え火を焚いたからだろう。
あのたき火が私の心に焼き付いているのではないか、と思った。
それから、これは迎え火に迎えられた先祖たちの霊が、実をつけていない一面の稲に乗り移ったのではないかと解釈してみた。
お盆なのだから、と。
お盆は今では墓を預かるお寺、つまり仏教の行事と見られてしまいがちだが、民俗学の定説では仏教よりも古い、稲作と密接な関係にある祖霊信仰に基づいたものとされている。
もともと先祖を祀っていたところへ仏教が移植されたのである。
先祖の霊はたんに死んだ人の霊ではなく、子孫の繁栄とその繁栄を約束する五穀豊穣をつかさどる神なのだ。
だから先祖を祀るというのは、生きているものの幸せのためにあったのである。
正月に迎える年の神とか稲作をつかさどる田の神とかいうのは、一概には言い切れないが、私は先祖の転生、あるいは分身だと考えている。
この見方を押し進めて私は、人類の作り出す意味について考える学問を志向している。
この世界はまさに人間が作り出したものであって、けっして神が作り出したものではないのだ。
人間が作り出したもの以外はすべて自然のものである。
神もまた、ある意味で人間が創造したものである。
見出したと言う方が、語弊が少ないだろう。
神の存在を云々するのはわれわれ人間のすることではない、というのが私の学問的立場である。
神が存在しているのに気がついた、というのならいい。
神が存在すると信じる者には存在し、信じない者には存在しない。
けれど神の概念は人類史の上でパラドックスな存在であって、神を信じている方には神は見えず、神を信じていない方に神が見えているということもあるのだと私は考えている。
神という存在は、その人間の意識というよりは、その人間の存在の仕方に関わっているのではないか。
疎水が流れる田の中の一本道を真っ直ぐに行くと、途中道の脇が一部分焼け焦げている。
昨晩の迎え火の跡なのだろう。
さらに先を行くと、この道の突き当たりに森が見え、森を迂回するように道が二手に分かれている。
その森のかたわらに赤い鳥居が目についた。
つまり鎮守の森なのだ。
このあたり一帯の氏子(うじこ)の守り神ということになる。
私はその場所へといざなわれ、森の中に引き込まれるように進んでいった。
なにかとても懐かしい場所、親しい者に会ったような気がした。
だけど、この場所に来るのは初めてのはずだ。
これまで、こっちの方に来たことはなかったと思う。
それとも来たことがあるのだろうか。
石柱が立っていて、○○大神宮、とある。
鳥居の横に縁起が記されたものがある。
祭神、天照大御神。
江戸時代初期の年号が記され、四氏の産土(うぶすな)神として堂宇建立。
この森の木の枝に残った雫が風もないのに、小雨のようにぱらぱらと落ちてきた。
森の脇に釣り鐘状の薄い紫の花が揺れている。
誰かの意志でもあるかのように。
ふと目を転じると、今まで空を覆っていた雲が切れて澄んだ青空が現れ、その下に東北地方を代表する馬の背のような山の稜線がくっきりと姿を見せた。
山の麓の方は靄に包まれている。
ここだけを見ると、下に雲があり上空は晴れ渡って逆転している。
山の麓よりこちら側は靄から次第に大地の姿を現して来る。
靄の合間から濃い緑の森が幾つも島のように浮かぶ田の海が始まり、その田に張られた水が空の明るさをもらって、キラキラと私の目に写し出される。
あたかも地とも天ともつかず、私の目は地の田の海に空の片割れを見ている。
私はこの光景を黄緑色の長い葉の水草が一方に流れている疎水のほとりから眺めている。
なんと自然は雄大なのだろう。
日が高くなるに従って、山と平地との間にあった靄は取れて行く。
それで今朝の散歩を終わりにしようと思った。
家の人に気づかれずに出てきたので、私がいないのをどうしたかと思うだろう。
私は目についた草花などをスケッチしながら、ここまで歩いてきた道を戻り始めた。
家に戻ると、家の人はもう起き出してきていて、私が朝、田の稲が炎のように燃えているように見えたと話したら、この田はみんな実を結ばないで、焼くよりほかないだろうと言っていた。
手間をかけて育てた稲を放棄しなくてはならないなんて悲しいことだ。
午後は昔の家があったほうに行ってみようと思った。
以前家のあったところは、町の主要部を通り抜けた反対側だった。
行って、あたりが以前とすっかり様子が変わっているのに愕然とした。
私が生を得た家はとうに別の家に建て替えられて、家の前にあった畑もなく、その畑に隣接していた、リスが遊んだクルミの木などの木々も跡形もなく伐られてなくなっていた。
私はもうこの場所には来るまいと思った。
あの場所は私の心の中に、大事な思い出としてしまっておこうと決めた。
私は田の中の狭い道を入っていった。
なるだけたくさんの田の稲を見ておきたいと思ったのだ。
どうしてそんな気持ちが起こったか。
今朝のことが私の心を駆り立てていたのだ。
おそらくは何千匹という無数のトンボが舞っていた。
秋の実りの時を知らせる使者は、どういう思いでこの不実の稲田を眺めていることだろう。
遅れた夏の日を惜しむように花実を結ばぬ稲波の上を、恋しく思え。
母を知らず、ただ生まれ出た命のかよわさ。
母なる大地は今年、地上の生けるものたちに恵みをもたらさなかった。
田の脇をゆったりとした水の流れがあった。
アマガエルに似た葉が流れて行く。
稲のような水草の群れる水の上を。
細長く伸びている町の田との境界は、森が町の端から端まで綻びのないように補綴している。
その森に向かって田の方からなんという鳥か知らぬ尾の長い鳥が数羽いちどきに飛び移った。
元を離れてこの処かの処にもぐり込む。
なにかの企みめいて見えた。
実りがない田を離れて田の霊たちが森に移っているかのようだ。
陽が大地を久々に照らし出して、草や花が照り映えていた。
けれど、長くとは続かなかった。
この郷里での滞在中に晴れ間らしい晴れ間は一度もなかった。
本当に今年の夏は日本全国的におかしかった。
私は結局町を見下ろすことをやめて田の海をなぞって帰る道をとった。
翌日はお盆で私は家の人とずっと一緒だった。
素朴な昔ながらのお盆。
私は十数年振りで祖先の墓をお参りし、供え物を手伝った。
次の日が、この帰郷の主目的だった。
市の病院に入院している叔父を他の家族と見舞った。
ベッドの上の叔父は、ふっくらとしていた叔父の頬がこけて、身体が骨と皮ばかりにやせ細っていた。
ほとんど口が利けない状態だったが、顔の表情からみなが見舞いにきてくれたことを喜んでいるようだった。
めったに田舎に帰らなかった私の顔もここにあるのだから。
叔父はにこやかに私の顔をじっと見つめていた。
私の心に、叔父に対するこれまでの積もる思いが湧き起こってきた。
叔父はあまり口数が多い方ではなく、いるのかいないのか分からなかったが、
いつもにこやかで子供にやさしく、そこにいるだけでなにかその場が温かくなるそういう人だった。
私は、この叔父からなにかを引き継がなければならないような気がした。
これが生きている最後のものとなるかもしれないなんて、とても思えなかった。
物心ついた頃よりこれまで、私は幸運にも家族親類の死に遭うことはなかったのだ。
これからは、いやというほど私はそういう場面に立ち会うことになるのだろうか。
翌日は朝からずっと雨だった。
私は傘をさしながら、再び田の中の道を歩いていった。
そこで今度は実らしいものをつけている稲をいくつも目にした。
全滅ではなかったのか。
なんとか実ったものもあるのだと思った。
帰ってからこのことを話すと、実がついているように見えているものでも中身は空っぽだということを聞かされた。
なんだか詐欺にでもあったみたいだった。
しっかり実を結ぶのは花の咲いた籾だけである。
私がその時見た稲の穂は傘の下でスケッチしている。
剣の葉の間から穂が恥ずかしそうに割り込み、その穂の先に小さな丸い籾たちが縦に並んでおしくらまんじゅうしている。
私は初めて稲穂をこうして間近に見た気がし、愛おしいと思った。
これまで何度も田の稲は見てきたのに、こうした思いになったことはなかった。
そうしたことはどんなことについても言えるのではないか。
なにげなく道ばたに咲いていた花に、私は心が惹き付けられた。
稲もこの路傍に咲く花も共にたった一つの命なのに変わりはない。
花は世界に向かって光を放散し開いて行くとともに、それとは反対に真ん中の花芯に向かって収斂されてゆくものがあるのを感じる。
それは、世界に向かって自分を与えているとともに、世界の方から自分の中に取り込まれようとしているという、双方向性なのだ。
つまり、世界はその花の一輪なくしてはありえないし、その花の一輪も世界なくしては存在しえないのである。
葉の上でそぼ降る雨に耐えながら、頭をくりくり回して前足で顔を洗うトンボ。
私は橋を渡ってさらに自分が行っていなかった地区に足を伸ばした。
台地の上に開けた開墾地という風景が、これまで私が知っていた郷里のイメージとはかけ離れている気がした。
郷里にこういう場所があったことを知ったことはよかったと思った。
こちらの方も田が続いているが、田の海の中に所々島のように屋敷森が浮かんでいる。
そうした屋敷森の中のいくつかには厩舎が散見され、牛や馬を飼っているところを見られた。
ここをずっと行くと何処に行き着くのだろうと、想像を巡らして愉しかった。
雨がようやく小やみになって灰色の空に、数少ない電線の上に鳩ほどの大きさの鳥が七羽鈍い逆光線の中で黒ずんで見え、人気のまったく絶えた、秋の実りの遅い田をじっと見下ろしている。
人の世をこの鳥はどのように睥睨しているのだろうか。
田の収穫の不備を嘆く人間の心を知っているかのように。
ほど近い何々森と名の付いている小高い山々は野に放たれた炎のように雨でけぶり立ち、風もなく稲波もそよがない。
なにやら電線の鳥たちが刑場のさらし首のように見えなくもない。
または、われわれの遠い祖先がわれわれのやっていることを静かに見つめているようにも、私には見えたのだった。
東北地方のある場所では、死んだ人の魂は鳥になって親しいところの元に帰ってくるということが古くから言われて、人々に信じられていた。
鳥を追い豊作を祈願する行事があるけれども、むしろ鳥は逆にわれわれの営みを見続けている存在であり、先祖に供えものをするようにあえて追い払ったりはせず、田の実りを感謝の意味で分かち与えるものではないだろうか。
田をいつも見つめている鳥の姿は、自分のあとに残して行く命である子孫を思う先祖たちの魂の姿を私に思い抱かせる。
前日に会ってきた叔父も何処かでわれわれを見守ってくれるのではないだろうか。
と、その時。
田の稲が再び一斉にちろちろと青白い炎を上げているのが、私には見えた。
*
その年一九九三年は天候不順が続いて全国的に米が凶作となり、初めて海外からの米の輸入に踏み切らせた。
ことに米所の東北地方が受けた打撃は大きく、収穫がゼロのところも出たという。
私の郷里などもその中に入っているのではないだろうか。 (終)