イギリスのジョン・ロックは、人はもとは白紙であるが、生きてゆく中で、さまざまなことを身につけて、今ある自分を形作った、と考えました。
つまり貴方は、生まれながらになにかではなく、生きてゆく過程で今ある貴方になった。
とすれば、貴方は、今ある貴方にこだわる必要はないということです。
今ある貴方は、かりそめに貴方が獲得したものであるに過ぎないわけですから。
これが自分であるというものをいったん白紙にする。
そうしたうえで、本来の自分というものを探し求めればいい。
これは、貴方が、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから自由になり、本来の貴方というものを生きるための、一つの戦略となるかもしれません。
とらわれている貴方は、自分をなにものにもとらわれていないものにすることで、新たな自分を手にすることができるのです。
しかし、自分のとらわれから解き放たれるのと同時に、貴方は、新たなものに囚われることになります。
それは、貴方を作っているものです。
貴方を作っているということだけで、それは、貴方にとって正しいことです。
なぜなら、貴方にとってただしいからこそ、今の貴方になっているからです。
さらに貴方は、少数の経験的意見よりも多数者の経験的な意見にしたがうべきであると考えます。
より多数の意見というのは、多数の経験に基づいているのだから、より正しいものであるのにちがいない。
ならば、すべての人は、より多数の意見をより正しい意見であるととらえ、それにしたがうことが賢明なことなのではないか。
こうして、わたしたちが生きている民主主義の大元である、多数決原理が考案されたのです。
ただ、数が多ければより正しいのか、という疑問は、ついて回ります。
少数の意見を無視した多数者の世界は、少数者だけでなく、多数者にとっても居心地のいいものではないと考えます。
誰かの犠牲の上に成り立っている幸せは、貴方の幸せであろうか。
互いに対等なものどうしの間で、より生きられるものと、より生きられないものとがあってはならないのです。
すなわち、互いに対等なものどうしを成り立たせているのは、平等の原理です。
平等でなくして、互いに対等なものどうしがより生き合われるということはないのです。
つまり、民主主義は自身の多数決原理を乗り越え、その先のすべての人が尊重し合われる世界を目指すものでなければならないのです。
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プロメテウスは、嘆息する。それは、とても惜しいという思いからである。
「互いに対等なものどうしをより生きようとする、わたしの同胞であるものよ。
貴方は、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから解き放たれる方法を見つけたのであった。
今ある自分をいったん白紙に戻し、なにもないところから、あるべき自分を求めてゆく。
それはとても正しい行為である。
しかし、貴方は、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから再び囚われることになった。
貴方は、より多数の意見はより正しいものであるはずだと、多数の意見を自身の意見とすることで、再び貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから生きられるものとなったのである。
自身を白紙にすることで、貴方は、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから、さらに生きられることになるのである。」