プロメテウス 第28回 偶然隣り合うことの真実 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 主観を排して、客観的な事物の観察と実験で得るものに基づいて考察するという帰納法の考え方は、次代の懐疑的経験主義者デヴィッド・ヒュームの批判にさらされることになります。


 ヒュームは、わたしたちが観察し、実験で得ることができるのは、科学的因果関係ではなく、たんに可能性にすぎないのだということを語りました。


 ある事実とある事実とが並んでいるとき、そこになんらかの因果関係をわたしたちは見ようとします。


 けれど、それはたんにたまたま隣通しに並んでいるだけかもしれません。


 因果関係があるのではないかというのは、わたしたちの勝手な憶測なのです。


 可能性として、因果関係があるかもしれない、という程度のことだ、とヒュームは主張するのです。


 しかし、この可能性としての因果関係が、とても無視できないものであることは、明らかです。


 はっきりした因果関係を証明されたわけではないのに、わたしたちは、その偶然隣り合った事実から特別な意味があるのではないかと思い込むのです。


 わたしたちを突き動かしている誤謬の正体の多くは、こうした偶然隣り合っている事実からの類推なのです。


 プラトンのイデア説もある意味、偶然隣り合った事実から類推するということでは、事実を誤認する心性と通うものがあるといえるでしょう。


 さて、ここまでは第一ステージのおさらいです。

 ここからは第二ステージ風に、ヒュームの問題点を述べようと思います。



 偶然隣り合った事実はただの可能性に過ぎない。

 だから可能性としてのみわたしたちは事実を把握するのみである、とヒュームは一刀両断するわけですが、しかしわたしたちによって生きられたという真実を、そう軽く見ることはできないでしょう。


 これから述べるのは、生きられる事実、生きられた事実という視点です。


 古来より続くスピリチュアル的発想の中核をなしているものは、この偶然隣り合った事実の重さにあるという気がします。

 それは、客観的な正しさ、つまり誰にも適用できるような事実ではなく、主観的正しさ、他の誰でもない、自分にだけ適用できるような事実なのです。


 もっとも、個人と集団とが密接な社会で、集団の中心的な存在が持つ主観的な正しさが、集団を構成する個々人を巻き込んできました。


 ただひとりにとっての正しさが、集団にとっての正しさにすり替えられるのです。


 ではどうしたらいいか。


 そこでヒュームの懐疑主義が登場するのです。


 「貴方がたが真実のように感じ取ったものは、真実ではない。


 真実らしいものである。


 真実らしいものは、真実であるとは限らない。


 真実の可能性があるというのに過ぎない。


 そして多くの場合は、真実ではないのである。」


 この懐疑主義は、立派である、とわたしは思います。


 ただ、そうはいっても、わたしたちの心性は、偶然隣り合ったものどうしに特別な関係を感じ取るものを持っているのです。


 もし、そうした偶然というものを信じることができなかったら、貴方は、貴方の大切な人たちと出会ってはいなかったでしょう。


 今大切な人を持っている貴方は、貴方の大切な人と出会ったことは、なにかわからないが、ある真実があるのに違いないと考えるのです。


 それもまた、わたしは、美しい心性である、と思います。


 大事なことは、なにが真実であるかではなく、結果どうなったかです。


 つまり、因果のうちの果です。


 結果、このうえなく関係を結ぶことができたなら、その関係をもたらしてくれた因は、きっと素晴らしいものであるのに違いない。


 因果を果から因を類推するという態度です。


 それは真実ということではなく、信仰の部類です。


 貴方の大切な人を信じることができる、そのことこそが真実です。


 信じることができるものが真実の存在である。


 その意味で、これは、信じる実で、信実(利害打算を離れた誠実な心)ということになるでしょう。


 

 人間をトータルに見るならば、ヒュームの懐疑も、偶然的な出会いを大事にする態度も、ともに必要なことであると、わたしは思います。


 ただ、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものは、ヒューム的な懐疑も、偶然的な出会いを大事にする態度も、ともに利用するのに好都合なものとなるでしょう。


 偶然を否定するも肯定するも、ともに貴方を生きる口実としてよいのです。


 すなわち、貴方は、偶然を否定する論理によって、貴方の隣人から引き離されて、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものから独占的に生きられるか、または、偶然を肯定する論理によって、因縁的な事柄へと駆り立てられていったのです。

 この後者の例は、デマによる大衆煽動です。


 事実関係のはっきりしない、ただの偶然隣り合った事柄を意図的に結び付けて、あたかもそれが必然であるかのように、大衆をだますのです。



 偶然の事柄を信じやすい自分を反省するとともに、偶然の出会いを大切なものと受け止めて、互いに対等なものどうしをより生き合うのです。


  *


 プロメテウス。


 「信じやすき、対等なものどうしであるものよ。


 貴方がた対等なものどうしは、偶然出会ったのである。


 貴方がたが、今ともに生きている人たちは、貴方の偶然がもたらしたものなのである。


 その偶然に感謝しよう。


 その偶然がなかったら、貴方がたは互いに出会わなかったであろう。


 しかし、それはただの偶然などではない。


 それは必然だったのである。


 貴方が今必要としていたから、偶然が、貴方を貴方の大切な人と引き合わせたのである。


 これは気休めではなく、真実である。


 その真実とは、誰にもあてはまるような客観的な真実ではなく、貴方にだけあてはまる主観的な真実なのである。


 そして、偶然が、まったく意味のないことである、と気が付いた貴方は、さらに幸いである。


 貴方は、貴方が偶然によって生きられやすいものであることを知っているからである。


 そのうえで、貴方は、偶然によって生きられることを楽しむべきである。


 それが互いに対等なものどうしがよりよく生き合われることのほとんどの部分をなすからである。


 一方、偶然によって生きられることを拒む貴方は、互いに対等なものどうしから分かたれ、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものを、貴方の信実の存在として受け容れるのである。」