フランシス・ベーコンの四つのイドラの最後は、劇場のイドラと呼ばれるもので、これは、舞台の俳優に無条件に感情移入するように、ある種の権威が語る言葉を受け容れることです。
極端な例では、洗脳とか、マインドコントロールもこの中に含まれるでしょう。
弁論術や修辞学(レトリック)とかいうのは、語られる内容、書かれている内容よりも、聞き手、読み手を説得するために考え出されたものです。
弁論術においては、声の強弱やリズム、身振りや態度、顔の表情などが、ときに話される内容よりも大きく力を持ったりします。
また、その人の身分や社会的地位も、聞く側の心に影響します。
用意周到に準備された舞台装置が、わたしたちの心を誘導したりすることがあります。
言論の操作といったりするものがそうです。
戦争をしているときは、国民を戦争に動員するために、さまざまなプロパガンダが繰り返し繰り広げられたりします。
自分が知らず知らずのうちに、心を操作されているということになかなか気づかない。
わたしたちは、別段、相手を憎くて、相手を傷つけたりはしない。
わたしたちの心を突き動かしているものが、わたしたちを罪のない隣人に対する殺戮へと向かわせているのです。
そのことは、また、キリスト教の世界では、キリスト教以外の考え方を受容することがとても困難であるということにも明らかです。
さまざまな心の操作が日常的に行われているのが、わたしたちが生きている世界なのです。
よって、世界とは、わたしたちの心が演じさせられている劇場だといえなくもありません。
フランシス・ベーコンは、演じさせられている世界からわたしたちの心を解き放ち、この世界とはなにかを、主観を離れた客観的な観察と実験によって、明らかにしようとしました。
わたしたちが生きている世界は、わたしたちが演じさせられている場所などではなく、わたしたちが自ら創造する場所であるはずです。
ただ、個々の事例から一なる原理法則にいたろうとする、彼の帰納法という思考法は、限界を持つものでした。
バラバラな個々の事例を丹念に観察、実験するとはいっても、そこに一貫した思想というものがなければ、まとまった結果は得られないからです。
ここでもわたしは、あえてベーコンの主張に反対しようと思います。
わたしたちは、権威に惑わされやすいところを持っています。
それは、じつはそんなに悪いことではなく、人を尊敬したり崇拝したりするのと、深くつながっていることなのです。
わたしたちは、尊敬する人の言葉は、いつでも受け入れます。
ときおり間違ったことを言ったとしても、わたしたちは、その人への尊敬の心から、信用をなくしたりいやになったりはしません。
その人が言っているからこそ、その人が言う言葉には価値があるのです。
貴方にとても好きな人がいて、その人は完全無欠な存在ではなくても、貴方はその人が好きになる。むしろ、その人の欠点まで好きになります。
一方、嫌いになったら、その人の長所までもいやになってしまう。
これがわたしたちの生なのです。
わたしたちの心がそのようなものだということを理解したうえで、わたしたちは、よりよく生きるべきなのです。
ただ、できれば、権威者の言葉を、無批判には信用しないようにしたい。
また、人ではなく、天災などの特別な状況が、わたしたちの心を突き動かします。
普段にはないさまざまな感情がわたしたちの中に起こってきます。
もっとも、それは悪いことばかりではなく、普段意識していなかった、助け合う姿があらわれたりするのです。
では、プロメテウスから。
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「互いに対等なものどうしを超えて、互いに対等なものどうしを生きる、主なる貴方よ。
貴方は、互いに対等なものどうしが互いを尊敬しあわなくなるように、権威のもつおぞましさを語ったのである。
『人間よ。貴方がたは、愚かである。
自分たちとそう違わぬものを権威として崇め、その言葉を無批判に受け入れているのだから。』 と。
うちから聞こえる貴方の声を聴きとめ、権威にしたがっていることの誤りを理解した人間たちは、互いを敬い合うことをやめ、ただ貴方を通して真実にしたがって生きようとした。
そのとき、貴方は、どんなものよりも権威であった。
貴方は、権威が持つ誤りから、人間を解放すると約束しながら、ただ貴方を真実の権威として崇めさせたのである。
互いに対等なものどうしは、ただ貴方を真実の権威としてあがめることで、より自身であるものを生きようとしたのであった。
わたしは、貴方から生きられている人間たちに、こう語りかけよう。
『貴方がたは、貴方がたから出てきた権威であるものを敬うべきである。
なぜなら、貴方がたから出てきた権威であるものとは、貴方がたから必然的に出てきたものだからである。
貴方がたは、貴方がたから出てきた権威であるものを敬うことに、なんらためらう必要はない。
権威であるものを持つのは、貴方がたの本来の生だからである。
誤ることもある権威であるものをよく理解することこそが、貴方がたの取るべき道なのである。』 」