フランシス・ベーコンが説く三つ目のイドラは、市場のイドラです。
これは、言葉自身が持つ誤謬性のことです。
わたしたちの世界は、言葉が作り出したものといいうるでしょう。
言葉はわたしたちの思考となり、わたしたちの規範となってきました。
けれど言葉はとても曖昧さを持っています。
言葉は、共通のことを理解し、伝えるための道具としてなくてはならないものですが、ときとして言外のものを伴ってきたのです。
ここが言葉の持つむずかしさです。
けれど、言葉以外にわたしたちは頼るものはありません。
だからこそ、言葉はとても大事なのです。
人と人とを結びつけるのは言葉です。
その最高の言葉は、信頼の言葉、愛の言葉です。
けれど、言葉は人をおとしめたり、傷つけたりもする。
ささいな言葉がとんでもない、取り返しのつかないことを招いたりもする。
そこで、ベーコンは、言葉にとらわれずに、誰もが物事を共有するために、現実の観察と実験を通して原理法則にいたろうとする帰納法(一般的原理法則から物事を説こうとする演繹法に対して)を提案したのです。
貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものは、第一に言葉を介して貴方を生きようとします。
だから、言葉に頼らないことは、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものからの解き放たれることにつながります。
ただ、完全に言葉によらないということはありえません。
どんなに言葉から離れて、現実の観察と実験をしようとも、観察と実験に方向付けを与えるものがなくてはなりません。
そこで、再び言葉が介入してくるのです。
貴方は、現実の観察と実験の前提としての言葉を受け入れます。
貴方は、言葉にとらわれないということを気にしながら、気が付かないうちに、言葉にとらわれていきます。
言葉にとらわれないと言いながら、いつのまにか言葉にとらわれている。
むしろ、言葉を全面的に受け入れて生きている人間の方が、まだマシかもしれない。
それは、自分が言葉にとらわれていないという思いを強くあると、じっさいは言葉にとらわれているという自覚を持ちにくいからです。
言葉にとらわれている自覚がないままに、貴方は、言葉にとらわれた現実の観察と実験を繰り返します。
それは、人間どうしの新たな誤謬を引き起こすことになる。
言葉にとらわれていないという思い込みがある分、厄介です。
言葉にとらわれることを拒むのではなく、むしろ言葉に積極的にとらわれてみてはどうでしょうか。
言葉にとられている貴方こそ、本来の貴方であるからです。
貴方は、自分がいかに言葉にとらわれているかを自覚し、積極的に言葉にとらわれることで、互いをより理解することができるでしょう。
積極的に言葉にとらわれることを通して、貴方と貴方の相手とは、互いをより生き合うことができるのです。
*
プロメテウス。
「科学者たち。
貴方がたは、自身が誤ることを恐れるあまりに、極力人とのかかわりを絶ち、言葉から解き放たれようとした。
けれど、言葉はけっして、貴方がたを手放しはしなかったのである。
貴方がたがは、言葉から自由になったと思ったが、それは幻想であった。
言葉は、貴方がたの意識よりはるか以前に、貴方がたをすでにとらえていた。
すなわち、現実の観察と実験に対する過剰な信頼が、それである。
貴方がたは、それを言葉のあいまいさを拒む、ただ一つの意味しか持たない、不変の言葉と理解した。
しかし、それこそが、貴方がたを害したのである。
貴方がたは、新たな言葉を通して、貴方がたを超えて貴方がたを生きる、貴方がたの自分であるものから、囚われの身となったのである。
わたしは、貴方がたに命じよう。
言葉に積極的にとらわれよ。
言葉に積極的にとらわれることで、貴方がたは、貴方がたの生の可能性を、より深く生きることになるのである。
すなわち、言葉にとらわれている貴方自身と貴方の隣人を深く理解することで、より互いを理解し、互いの自身であるものを、より生きることができるのである。」