これから述べるのは、第三ステージ「エリウゲナ・プログラム」と、たった今、呼ぶことにしたものです。
別の言葉でいうなら、「隣人による創造性の瞑想プログラム」です。
このプログラムに入る前に、この哲学ブログで述べていることの前提について述べておきたいと思います。
いろいろな解釈、理解はあっていいとわたし自身思うのですが、ここはぜひ押さえていただきたいというものがあります。
一般的に哲学を扱うものは個人と社会という視点で自己を問題にするとき、社会から切り離された存在というふうに考えられています。
そして、そのような視点で、このブログを読まれている方はじっさい多いものだと思います。
しかし、このブログではそういう視点をあえて外して書いています。
そこが、このブログの独自性なのだ、とわたしは考えています。
一般的な自己の取り上げられ方そのものに対して、疑いを抱くというのが、まずこの哲学ブログのスタンスです。
はたして、個人と社会とは対立概念であろうか。
また、自己というものについて考えるとは、社会から切り離された存在で考えてよいのであろうか。
わたしは、このことを言いたいと思います。
自己とは、社会から切り離されたものではなく、社会があってこそあるものであり、個人対社会というものは机上の空論である。
個人対社会という構図を作り出しているものこそ、わたしが一貫して追究している、「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」なのです。
つまり、社会から切り離された自己は本来の貴方ではない。
それは、「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」から生きられた、存在である。
そして、この「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」が、貴方が生きる社会を複雑なものにしている。
このじじつに立って、「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」から解き放たれた、自分というものを生きよう、というのが、この哲学ブログのスタンスなのです。
社会から切り離された自己というのは、机上の空論。
このことをふまえた上で、次のプログラムに進もうと思います。
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貴方という自分は、はたして貴方一人だけでできていますか。
貴方一人だけでできていると思ってたら、それは間違いです。
貴方という自分は、貴方がこれまでかかわってきた人やことから、もらったもので作られているのです。
人間のからだは新陳代謝を繰り返し、絶えず入れ替わっているといいますが、それは貴方の心とか魂とかいうレベルにおいても言えます。
貴方の隣人は、今貴方の中を流れている血の一滴であるかもしれません。
貴方は、たえず、貴方の隣人から生かされている。
貴方一人で生きたことは、これまで一度もないのです。
そんなことはない。自分は一人で生きてきた、というのは、貴方の目が見ていなかっただけです。
貴方はどうして生きていますか。貴方の親がいて、いま貴方があるのです。
貴方の親がいなければ、貴方はこの世界には存在していなかった。これはとても重要なことです。
貴方がやさしい心の持ち主であるのは、貴方のまわりの人からいっぱいの愛情を注がれてきたからです。
愛をたくさん与えられたので、そのおすそ分けをいま、貴方は機会あるごとに、ひとにお返ししているのです。
その反対に、貴方が人を信じられないのは、貴方が人から裏切られたことがあるからです。
貴方の傷ついた心が、いまも癒されないでいるのです。
癒されないものが、貴方の傷をどうにか癒そうとして、自分の求めと引き換えの怒りを、人にぶつけているところなのです。
貴方は、さまざまなものから影響を受け、また与えられて、貴方という人間を作り上げているのです。
スピリチュアル系で言われる、月の影響とか、過去世とかいうのも、この線で理解することができます。
また、さまざまな迷信や誤りであるものからも貴方は作られています。
だから、貴方は、迷信だからとか、誤りだとかいう理由で、否定することはできません。
それが、貴方を作っているからです。
貴方の中の隣人に気づくこと。
そこから、貴方は、貴方自身をさらに創造してゆくことになります。
これまでの貴方は、隣人から創造されていたことに気が付いてこなかったという意味で、受け身で生きてきたました。
しかし今、隣人から創造された自分に気づくことで、貴方は隣人から積極的に創造されるものとなったのです。
そして、隣人から積極的に創造される貴方が、こんどは、隣人を積極的に創造する存在となる。
次回では、隣人を創造する貴方について述べたいと思います。