思惟の根拠である神を疑うこと | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 あなたは宇宙にいっさいのものの始原の姿を見ます。


 神とは、この宇宙にほかならない。


 いっさいの存在の根拠、宇宙の最初のアクションをもたらしたものとして神の存在を説いたのはアリストテレスでした。


同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

 また、どんなに思惟したとしても人間の思考にとどまるかぎり、それらは確かなものとはいえない。

 その思惟が真に確かなものとして認めることができるためには、最後に神の正しさがなくてはならない、というのがデカルトの方法的懐疑です。


 いっさいの思索の根底には神の存在があり、神の存在を抜きにしてはいっさいの思索は成り立たなくなる、とこの古代と近代をそれぞれ代表する哲学者は考えたのでした。


 そうしてみると、神の存在を想定しえない今日のわたしたちは、どのように自身の思索を保持していることができるのでしょうか。


 わたしの考えを言います。

 そもそも思索の根拠を求める、その想定自身が間違っている、ということです。


 デカルトは思索を妨げるものを排除するために、方法的懐疑を用いました。

 いっさいを疑う。そうして疑いきれないものとしてのコギト(思惟する自分)を見出し、そこを足場にして思索を展開してゆきました。

 しかし、そもそもそうしたやり方にこそ限界があったのです。

 自分の思惟が正しいものであることを保証してくれる神の存在があってこそ成り立つ方法なのです。

 神自身が仮に過ちを犯す存在だとしたら、彼の思惟は完全に瓦解してしまうでしょう。

 

 真実は、デカルトが排除したものの中にこそある──。

 これがわたしの見解です。

 わたしたちを幻惑し、混乱に陥らせるものの中にこそ、真実がある。

 そうすると、わたしは、デカルト以来の哲学の伝統を完全否定することを述べてゆくことになるでしょう。


 わたしは、果敢に近代哲学を否定していこうと思っています。

 第一ステージで行っていたことは、そのための準備だったのです。


 第二ステージで「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」について探究することを通してやろうとしていることとは、デカルトが自身の思惟の根拠においていたものを、反対に思惟の根拠から排除してゆくことなのです。


 この試みがどこまで成功するかはとても分かりませんが、あせらず、急がず、じっくり取り組んでゆこうと思っています。