初期のキリスト教が受けた迫害の意味について考えてみたいと思います。
あなたは、多くのキリスト教徒たちが殉教したことを知っていますか。
あなたは、思うでしょう。
ただキリストを信仰するだけで、どうしておびただしい血を流さなければならなかったか、と。
ローマ帝国にとって、キリスト教徒は無視できない存在でした。
ほうっておくと、帝国の秩序を乱す、危険な存在と見られていたのです。
もともと、ローマ帝国は宗教の自由をある程度認めていました。
ローマ帝国内の秩序を乱さないという前提で。
宗教を抑えるつけることで、統治をかえって難しくさせるのなら、むしろこれを認めることで、統治をやりやすくしよう。
これが小さな国家なら強力に宗教を抑える統治が可能ですが、全地中海世界に広がる巨大な帝国領を治めるには、統治内の民の宗教も認めることの方が得策です。
ユダヤの民族宗教、ユダヤ教に対しても、ローマ帝国は許容していました。
ユダヤ教は、ただユダヤ民族の中にとどまり、民族の統率を訴えるものだったので、むしろ帝国内の安定の助けになったからです。
しかし、そのユダヤ教から出てきたイエスの教団は別でした。
ユダヤの民族宗教を離れて、他の民とつながろうとしたので、帝国の統治機能を次第に危うくするものになっていったのです。
キリスト教は、他の宗教を認めない排他性を持っていました。
ときには、他宗教の偶像や祭壇を破壊する行為まで及ぶこともあったかもしれません。
キリスト教以外の宗教にしてみれば、自分たちの宗教を破壊し、信者たちを強奪してゆく危険な宗教団体だったのです。
キリスト教をどうにかしてほしい、という他宗教からの声が強くなっていったことが十分想像できます。
ローマ帝国も帝国内の秩序を守るために、他宗教からの排除要請を受け入れなければなりませんでした。
つまり、二重の意味で、キリスト教徒は迫害を受けなければならなかったのです。
一つはローマ帝国の統治機能を奪う越境的な布教活動に対する警告という意味で。
もう一つはキリスト教に対して脅威を抱く他宗教からの要請に応えるという意味で。
自分たちの正しさを主張し、他のものの見方を否定する。
これは、間違った態度だとわたしは断言したいと思います。
あなたが正しいと信じるということの行為には、あなた以外の人間にとってどうかという視点がなければならないと考えます。
なぜなら、正しさとは、あなたの中だけで完結するのではなく、大概、他の人間とのかかわりがあるからです。
あなたがいくら自分は正しいことをしていると思っていても、相手は、あなたが正しいと思っているようには必ずしもとってくれるわけではありません。
むしろそうではない、と考えておくべきでしょう。
あなたの正しさは、あなた以外のものにとってありがた迷惑な場合もあるのです。
あなたが正しいと信じることは、正しくはないかもしれない、という視点を持たなければなりません。
真の正しさとは、あなたと他の人との間にしかないのです。
あなたがしたことが、相手の人間にいい結果をもたらしたときに、それは正しいことになるのです。
そういう意味で、この頃のキリスト教には、迫害を受けても仕方のない部分があったかもしれません。
相手の宗教を否定し、強引に自分たちの中に取り込もうとしました。
そのやり方は、攻撃される宗教にとって脅威だけでなく、帝国の統治者にとっても悩ましいことでした。
そうであるから、なにか忌まわしいことが起こると、キリスト教徒の仕業と見られることになりました。
(なにかあると、その仕業と見られる、というのは、これまでの歴史の中で何度と繰り返されてきたことです。)
ローマの大火というのが、まさにその典型で、皇帝ネロは放火犯をキリスト教徒であると決め付けると、多くのキリスト教徒たちを捕らえ、火あぶりの刑に処したのです。
自分たちの考えを絶対的真理とみなし、他の考えを受け入れない人。
あなたは大丈夫ですか。
もっとも、人間はついそのような方向に流れやすいところがあります。
それは、弱いからです。
あなたの弱さが、あなたを頑迷な人間にしてしまうのです。
そのことが見えてきたら、いまとても頑迷なあなたであっても、わたしはあなたを見放したりはしません。
あなたの言っていることが分からなくても、またとても肯定できなくても、わたしはけっしてあなたを拒んだりはしません。
あなたの方から拒まれるかもしれませんが、わたしの方はいつもあなたと受け入れて、あなたといつまでも結論のない議論を続けたいと思います。