第一の結論 自分にとって都合よいものに事実を作り変えている。 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 イエス亡き後のペテロによって指導された教団とサマリアのメシア、シモン・マグスの対峙を通して、第二ステージの一つの結論が引き出されたように思われます。


 それは、自身を超えて自身を生きる、自分であるものは、自分にとって都合のよいように、事実をどんなにでも作り上げる、ということです。


 イエス存命中からイエスがつくった教団には、クリスチャンの方々にはまことに申し訳ない言い方をさせていただきますが、「捏造体質」というものがありました。

 イエスが行った奇跡を信じられている方のお心を損なうことになることがとても心苦しいのですが、「おそらく」イエスの奇跡も作られたものです。


 ただ真の奇跡、魔術という言い方をしてもよいかと思いますが、それは言葉の魔術というものであり、言葉の力によってひとの心を変容させる、ということが真の意味なのだと、わたしは考えたいと思います。


 だから、イエスという存在は捏造されたものだから信じるに値しないとは、けっして申しません。

 大事なことは、あなたの心に起こった変容、これこそが奇跡でなくてなんであろう、ということです。


 とはいえ、「イエスから奇跡を行う力を与えられた」イエスの弟子たちが、自分たちの敵対者に対して魔術を使うのはとてもいただけません。なんとも見苦しさを感じます。


 ところで、イエスの教団を通して考えてきたわけですが、イエスの教団だけについて述べてきたわけではありません。そこはぜひ誤解しないようにお願いします。


 ここで述べていることは、わたしたちの普段の中に潜んでいることなのです。

 つまり、自分に都合よいように事実を変えている、ということです。


 この哲学ブログもまたそうです。

 自分に言いたいことに都合よいように事実を置き換えたり、ときには妄想を加えて書いています。

 このことは今後も正直に述べていきたいと思います。

 「わたしは妄想する」と。

 しかし、それは事実をより深く開示するために行っている実験なのだということをご承知ください。


 真実をやたら求めるあまり、真実そのものを見失ってはいませんか。

 真実というのは、むしろ真実ではないものの方からよく見えたりするものです。

 そして、真実とはいったいなんでしょう。

 はたして、そういうものがあるのか、ということもあります。

 たんに、そういう一つの見方ではないか。

 わたしたちは、虚実の世界で生きているのです。

 それこそが、真実ではないでしょうか。

 そういう意味での真実は、どこまでも追究されるべきことだと、わたしは考えます。

 

 わたしたちは事実をさまざまに作り変えています。

 自分仕様に事実をカスタマイズしている、とも言うことができるかもしれません。

 それは当然のことであって、一つの事実は、ただ一つの意味しかないのではないのです。

 わたしたち個々からどのように生きられるかで、事実は多様な世界をもたらすのです。


 とはいえ、客観的に、それがあったか、なかったか、といった事実の確認について言うならば、事実は一つです。

 そこのところはしっかり見過ごさないでおきたいと思います。

 よく取りざたされる、「歴史の真実」とかいったりするものです。

 人によって、事実としてあったり、なかったりするのでは、困るのです。

 ただそれをどう解釈するかはまた別です。


 次回はその後の初期のキリスト教に起こった事柄を見ていくことを通して、自身を超えて自身を生きる、自分であるものをさらに追究していきたいと思います。