「マタイによる福音書」第七章には、
──人を裁くなかれ。
自分が裁かれなくなるからである。
あなた方が裁くその裁きで、自分も裁かれ、
あなた方の量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
とあります。
これは、一般には、裁くのは、ただ主なる神だけであって、人は互いを裁くことはできない、という意味に説かれています。
ただこれまで、人間が人間に対して裁いたり罰したりすることがなくなったかというと、わたしが知るかぎり一度もありません。
ただ、心情の部分で、罪を憎んで人を憎まず、というところは、一定程度人々の心に浸透していると言えるかもしれません。
その意味では、この聖書の言葉は成就された、ということになるでしょう。
もっとも、わたしは、この言葉をそのような意味だけにとらわれるべきではない、と考えます。
誰かを損なったり罰したりするのは、はたして、あなたの心から出ているのでしょうか。
否、とわたしは答えます。
あなたの心ではない。
あなたの心を生きる、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものなのです。
つまり、あなたは自分の心から人を損なったり罰したりするように思っていますが、真実は、あなたの心を生きるものが、そのようにあなたを促しているのです。
じっさい、人を損なったり罰したりしているのは、あなたではなく、あなたの心を生きる、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものです。
あなたが、あなたの心から、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものから解き放たれるならば、あなたは、誰かを損なったり罰したりする必要はなくなるでしょう。
だから、次に来る言葉は、意味深です。
──兄弟の目にある塵(ちり)を見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして、兄弟にむかって、あなたの目から塵を取らせてください、
と言えようか。
あなたは、自分の心だったり、自分の目だったりするものにとらわれてはいけない。
それは、あなたであって、あなたではないもの、すなわち、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものかもしれません。