「マタイによる福音書」の第六章に入ると、このような文があります。
──自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。
もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
これは、ただ自分を見つめている主なる神にだけ見られるように行動しなさい、と一般には解釈されています。
わたしはこれを、イエスが逆説的に語った言葉だと解釈します。
「自分の義」は、見られるために行うのです。
なぜなら、それが自分を超えて自分を生きるものが要請することだからです。
あなたを超えてあなたを生きるものが、あなたを通して、あまたを生きるためには、あなたの義は人の前で見られなくてはならないのです。
しかし、それは、あなたがほんとうに生きることではありません。
あなたは、あなたと対等なものどうしを生き合うことで、あなたであるものを真に生きることになるのです。
「あなたは、自分を超えて自分を生きるもののために、行動してはいけない。ただ、互いに対等なものどうしであるものを生きよ。」
これこそが、ほんとうのメッセージです。または、ほんとうのメッセージであるべきです。
互いに対等なものどうしは本来、互いに生き合われるべきであって、互いを超えて生きるもののために生きられるのではないのです。
ところで、どうしてイエスはまったく反対のことを言っているのでしょう。
それは、イエスをおいて、すべての人間は、自分を超えて自分を生きるものから生きられているからです。
「自分の義を見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。」とは、自分を超えて自分を生きるものによらずに、自分と対等なものどうしを生きよ」ということであり、「もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがない」とは、「報いをうけてはならない」と言っているのです。
つまり、イエスなる人物は、ある意味、神観念を作り変えること(ただし、それはほとんどの人には知られていない事柄かもしれません)で、地上に天国を創造しようとしたのだ、ということをわたしは妄想するのです。