新しきイエス 第八回 自分の心を乗り越え、互いに対等なものどうしを生き合う | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 イエスは、心で思っていることは、行っていることと同じである、ということを言っていますが、この言葉は、神の前では、心こそが重要であるという意味で解釈されています。


 しかし、わたしはさらに一歩進めたいと思っています。

 心で思っているということは、それに支配されているということだ、ということです。

 心で思わないで、行動するというのはめったにありません。

 たいがい、行動には理由があるのです。

 すなわち、行動を起こす心こそが重要だ、ということを言っているわけですが、それだけではありません。

 行動を起こさせる心とは、自分を超えて自分を生きるものから生きられる自分自身ということです。


 要するに、あなたが起こした行動は、あなたの心から出ているのではなく、あなたの心を生きる、あなたを超えてあなたを生きるもの、すなわち、「神存在」によって起こされている、ということなのです。


 「マタイによる福音書」第五章から。


 「『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果たせ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

 しかし、わたしはあなた方に言う。

 いっさい誓ってはならない。

 天をさして誓うな。

 そこは神の御座であるから。

 また地をさして誓うな。

 そこは神の足台であるから。

 (中略)

 あなた方の言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。

 それ以上に出ることは、悪から来るのである。」


 これを、わたしは神存在によって生きるべきでなく、互いに対等なものどうしを生き合われるべきである、と語った言葉のように理解します。


 「天をさして誓うな」や、「地をさして誓うな」とは、自分を超えて自分を生きるもの、すなわち「神存在」に対して誓うのではなく、互いに対等なものどうしの間で誓い合われるべきことを意味しているのだと、わたしは考えます。


 「悪人に手向かうな。

 もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、もう片方の頬をも向けてやりなさい。

 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」 


 この言葉は、あなたが聖人のようになれ、と言っているのではなく、自分を超えて自分を生きるものにさからい、互いに対等なものどうしを生き合え、と言っている意味に、わたしは捉えます。


 そして、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」という言葉は、自分を超えて自分を生きるものを、あなた自身が自ら超えて、互いに対等なものどうしを生きよ」という呼びかけなのだ、とわたしは考えます(あるいは妄想します)。


 この言葉には、自分を超えて自分を生きる、自分であるもの、すなわち、「神存在」がじつは完全なものではなく、互いに対等なものどうしに依拠することで、完全なるものとして生きることができる、ということを暗示しているように思います。


 なにやら、あやしいこと(笑い)を言っていますが、こういうあやしいことを少しずつ引き出して、第二ステージに雄々しく向かいたいと思います。