「マタイによる福音書」第五章には、このような言葉があります。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたれることはなく、ことごとく全うされるのである。」
そして、
「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」
律法や預言者を廃するためにきた、のではない。成就するために来た、とはどういうことでしょうか。
そのあとで、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、と言っています。
これは普通に、こう解釈されるかと思います。
新しい世界を創り出そうとするなら、すべてを否定するのではなく、すべてを受け入れることから始めなくてはならない、ということです。その上で、すべてのものを上回るようなものを創造しなくてはならないのです。
よく考えてみればお分かりだと思いますが、すべてを否定して果たしてこれまでのものを上回るものが作れるものでしょうか。
それは無謀なことなのではないでしょうか。
たとえ理念上はより素晴らしいものであっても、素晴らしい理念のゆえに、損なわれていいというものは存在しません。
損なうものがあるとしたら、そこから理念は急速に光を失い始めるのです。
しかし、現代の今日に至るまで、その愚行は行われてきたのです。
新しい理念による社会の刷新の名目の下で。
社会に対して不満を抱いていた人たちは、イエスに一切を革新する救世主を求めたのです。
しかし、それが間違っている、と説いたのが、冒頭の言葉です。
ここでは律法学者などについて言っているのですが、極端なことを言えば、もっと愚かな人間についても同じことが言えます。
すなわち、たとえその人間の考えていることが誤っているものであっても、その人間がそれを信じているということは、そこになにかしら真実があるからです。
その考えのどこかしらが誤っているからといって、その考えをなにもかも否定することはできません。
それは自分自身に対しても当てはまることです。
これまでいたるところで、間違いをしでかしてきたとしても、自分がどうにかこうにか生きてこれたというのは、今あなたが、それをはっきり言い当てることはできないだけで、なにかしら信じてこれたものがあるからです。
まずは受け入れるということから始めなくてはなりません。
相手を。そして自分自身を。
互いに対等なものどうしが、また自分自身との間で、まずは受け入れること。
そこから、始まるのです。
始まるとは?──天国が。。。